2016年02月27日

『ユニオンジャック――国家ぐるみの犯罪』の明治乳業争議版です。日本の労使関係を「対決」から「協調」へ変質させようとする権力の意図が透かし見える。【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」完結編(戸塚章介)】



検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)。命令は、不当労働行為を免罪し、労使関係を「対決」から「協調」へ変資させる権力の意図。その結果、格差と貧困の国に転落。人間の尊厳を守るため勝たなければならない。

検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

はじめに
明乳市川工場事件
潮流間差別争議
労働戦線の右翼的再編
左派委員の追放
連合独占阻止
末廣使用者委員
黒川 沢井証人
成川事務局員
雪印乳業の和解
2度の和解提案
高田公益委員
併合事件の分離
社長に会う
公権力押しつけ
共同行動
大日本印刷事件敗訴
国民金融公庫命令
労働者委員退任
労委制度60周年
明乳全国事件
雪印一般労組結成
「試験は公平昇格手続き」
朝日火災・日立中研命令
都労委のスタンス
完全敗訴命令に愕然
仕組まれた「事実認定」
「生産疎外者は解雇も」
一方の組合活動を敵視
邪魔な証拠は消せ
ちらつく明乳労組の影
後日談
明乳争議の今日的異議

はじめに

 明治乳業争議が始まって30年になる。他の同種争議が次々に勝利解決をしていく中で、なんで明乳だけが取り残されてしまったのか。原因は言うまでもなく1996年9月11日に交付された都労委の不当な「棄却・却下命令」である。おれは担当の労働者委員として争議団や弁護団とは幾分違った角度、つまり都労委の内部からものを見られる立場にあった。心身の衰える前に「命令に至る経過」をもう一度検証してみたいと思う。月に何度か本ブログを借りて「真相への肉薄」を試みることを許していただきたい。

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 明乳市川工場事件

 都労委に明治乳業賃金差別不当労働行為事件(明乳事件)が最初に申し立てられたのは1985年(昭和60年)4月18日(事件番号60年不27号)、30人連名(後に2人追加)の個人申立である。

 昭和60年度「都労委年報」によれば「請求する救済内容」は、@申立人の55〜59年度の職分・号級の是正、A賃金是正額に年6分を付加して支払う、B損害賠償および慰謝料として1人300万円、C今後は差別しないことの誓約、D陳謝文の手交・掲示、の5項目となっている。

 申立要旨「申立人Sら30名は申立外明治乳業労組市川支部に所属し、支部結成直後の37から42年までは支部の執行部の一部を占めるなどして、労働者の生活と権利を守る強力な組合づくりのために奮闘し、その後も支部の民主的運営を一貫して要求するなどの組合活動を行っている。ところが会社は、申立人らの組合活動を嫌悪して、申立人らを低い職分にすえおき賃金差別を加えてきた」(都労委年報)。

 事件の担当三者委員は、公益・高田章(明治学院大学法学部教授)、労働者・森武郎(都職労特別執行委員)、使用者・三橋英雄(石川島播磨重工業株式会社顧問)で、当時の年齢は高田60歳、森54歳、三橋75歳であった。申立半年後の85年10月25日に第1回審問(証人・加賀谷武喜)が行われた。

 潮流間差別争議

 明乳事件はいわゆる「潮流間差別事件」である。大企業における賃金身分差別事件は少数派組合員に対する組合間差別として争われてきたが、1970年代後半に入ると会社に丸抱えされた労働組合の中でがんばっている少数派集団が立ち上がった。その典型が「東電人権闘争」と「石播差別争議」である。


 「潮流間差別事件」の双璧である@東電人権裁判とA石播賃金差別争議は同じ年、1976に提訴された。@は1都5県の裁判所、Aは東京都労働委員会がたたかいの舞台になった。東電原告団は共産党員および同調者に対する思想差別を前面に出し、石播提訴団は労働組合活動を理由とした差別を問題にした。

 1976年9月25日に申し立てられた石川島播磨重工事件(51年不101号)は、明乳事件申立の85年当時、労使双方の個別立証の真っ最中だった。担当公益委員は最初が塚本重頼都労委会長、塚本さんが最高裁判事になったので次がやはり会長の浅沼武さんで、都労委としても特別の事件扱いだった。

 実は都労委には石播事件の以前にも「潮流間差別事件」が申し立てられ命令も出ていた。@「北辰電機事件」(76年12月27日命令・一部救済)、A「三井製糖事件」(80年4月24日命令・一部救済)。Aは差別連のご意見番・篠崎力さんや、この前亡くなった渡辺博さんが申立人だった。

 まだ命令に至らず都労委で審問中の潮流間差別事件としては、80年7月12日申立の「雪印乳業事件」(55年不63号)、82年12月13日申立の「電力中研事件」(57年不115号)がある。

 明乳が申し立てた85年以降は「国民金融公庫」(86年)、「日立中研」(86年)、「山武ハネウェル」(87年)、「大日本印刷」(90年)、「日本ペイント」(90年)「エールフランス」(91年)、「凸版印刷」(92年)、「日立製作所」(92年)などが続々申し立てることになる。

 「潮流間差別事件」は全国の労働委員会、裁判所でもたたかわれた。命令が出たものだけでも「厚木自動車部品」(神奈川・78年)、「吉富製薬」(福岡・78年)、「日本鋼管」(神奈川・82年)、「日本電気工業」(大阪・83年)、「神奈川中央交通」(神奈川・84年)、「日本パルプ工業」(鳥取・88年)、「池貝鉄工」(神奈川・88年)、「千代田化工」(神奈川・92年)などがある。すべて「差別は不当労働行為」と認定され、申立人の請求を認めた救済命令だった。

労働戦線の右翼的再編

 このように70年代後半から80年代にかけて「潮流間差別事件」が労働者側から提起されるようになった背景には、急速に展開された労線統一という名の「労働組合の右翼的再編」の動きがあったことは間違いない。独占大企業を中心にして「たたかわない組合づくり」がすすみ、それに反対する労働者に対する労使一体の差別攻撃が陰に陽に行われたのである。

 ここで「労線統一」(労働組合の右翼的再編)の経過について簡単に振り返っておく。この動きは明乳事件を始め「潮流間差別事件」の単なる背景でなく、審査・命令に強い影響を与えたと考えるからである。

 80年9月、6単産(電機労連、ゼンセン同盟、自動車総連、電力労連、鉄鋼労連、全日通)のトップによる「統一推進会」が発足し、翌81年5月に「基本構想」が発表された。基調は「反共と労使協調」で、反対派の排除と国際自由労連志向を提唱。「基本構想」に賛成することを新しい統一体への参加の条件とする「選別結集」、それと「反対派の排除」が彼らの「統一」への手法なのだ。

 統一推進会は民間先行と称してまず「全民労協」の発足を画策した。総評内部では「基本構想」の是非と全民労協への参加をめぐっていろいろ議論があったが、82年7月の定期大会で「全民労協参加」を多数決でごり押しした。その後は全民労協の連合体移行、総評解散へと一目散で突っ走ったのである。

 新しいナショナルセンターとして「連合」と「全労連」が結成されたのは89年11月である(後に「全労協」も)。結成は89年だが、連合はそれ以前から国や地方の労働行政との関係を「連合独占」にするための工作を怠りなく行っていた。国や地方もこれに手を貸した。労働委員会もその渦に投げ込まれた。

 労働委員会労働者委員は、労働四団体といわれる「総評」「同盟」「中立労連」「新産別」からの推薦で選任されていた。これを批判して「純中立懇」が名乗りを上げたが選任には至らなかった。総評推薦委員にもいろんな人がいた。大きく分けて二つの潮流があった(便宜的に「右派」「左派」委員と呼ぶ)。

 連合結成が必至とされた80年代半ばには、中労委をはじめ都道府県労委に左派委員がかなりの数を占めていた。中労委の原茂さん(炭労)をはじめそれらの人たちは大体ベテランで、労働委員会内で重きをなしていた。私も85年には5期目の都労委委員に任命され、原さんたちと連携しながら活動していた。

 これらの左派委員が労働委員会に残るとなれば、労働委員の「連合独占」は崩れてしまう。連合は結成以前の段階からこれらの左派委員をどうしたら排除できるか、周到に手を打った。それはそれぞれの委員の出身組織に圧力をかけるところから始まった。まず中労委の原委員排除から手をつけた。 

 原茂さんは1920年の生まれ。北炭入社直後から組合活動に入る。1956年に炭労委員長に選出され、あの歴史的な三井三池争議を指導。争議は事実上敗北し、炭労は指名解雇を認めて政策転換闘争に舵を切り替える。原さんは炭労委員長を退任して63年に炭労顧問の肩書で中労委労働者委員に就任した。

 全国の労働者委員が全員加盟する労委労協という組織があって原さんはその事務局長だった。原さんは労働者委員として優秀だったし、労働委員会制度の在り方に関する理論家でもあった。労働者委員の多くは順繰りに名前だけ連ねている大単産の幹部であり、まともに経営側と対決する気などない。原さんはそんな連中を相手にせず、やる気のある左派委員を束ねて労働委員会の役割強化を進めてきた。

 そんな原さんは労使協調路線の連合派(連合の設立は89年11月だが便宜上それ以前も連合もしくは連合派とする)にとって迷惑な存在だった。彼らは連合発足までの間に原さんはもちろん、できれば左派委員全員を労働委員会から排除しようと考えた。それが形となって表れたのが、88年10月1日付の中労委第20期三者委員任命である。

左派委員の追放

 連合派が全国の労働委員会から左派委員を一掃しようと考えた動機のもう一つに国労問題がある。国労は86年10月の修善寺大会で、執行部の「労使共同宣言」締結方針を否決、たたかう路線を選択した。この国労に対し、国と当局が組織攻撃をかけてくることは必至で、組合が戦いの場を労働委員会とすることが容易に考えられた。そうなる前に労働委員会をを連合派で抑えておきたかったのである。

 連合派は労働委員会左派委員の司令塔である中労委原茂労働者委員の追い出しにかかった。労働者委員になるには労組法の規定で「労働組合の推薦」が絶対条件とされている。原さんの出身母体の炭労は総評の中ですでに弱小単産になっていて発言権はないに等しかった。原さん推薦のカギは総評民間部会に握られていた。

 88年当時の総評民間部会事務局長は私鉄総連出身の村上寅十氏で、彼が民間部会関係の労働者委員推薦の窓口だった。連合派は村上氏を脅して原さんの推薦を断念させ、あろうことか原さんの後任に村上氏本人を労働者委員に推薦させた。なおそれまで左派委員と見られていた全金本部顧問の平澤栄一氏は出身単産の全金が右旋回し全民労協参加を決めたお陰で生き残れたが本人も右旋回してしまった。  

 原さんが連合派の策略で中労委労働者委員の推薦を受けられず退任させられた同じ時期、全国の労働委員会で左派委員外しが集中して行われた。ここではその代表的なものを取り上げる。

 まず87年5月、福岡県労委で29年在任した花園憲一委員が辞めさせられた。花園さんは三井三池炭鉱出身で福岡県評法対部長。福岡県労委は労使ともに弁護士の代理人を認めなかったため、労働者委員は争議団、争議組合と一体となって審査を進めなければならなかった。労働委員会の実務に精通し、全国の労働者委員で構成する「労委労協」の理論と活動を原さんと二人三脚で支えていた。

 次いで87年9月、京都府労委で京都総評事務局長の谷内口浩二委員(在任24年)と京都私教連書記長の小山茂二委員(9年)が退任させられた。谷内口さんも不当労働行為に関する論客で全国に名を知られていた。2年後の連合、全労連発足にあたって京都総評は全労連を選択するのだが、それを見越して連合派によって委員の席を奪われたと言える。谷内口さんはその後全国革新懇世話人として活躍している。

 神奈川県労委の大森功委員、加藤安雄委員も労働者委員の重鎮だった。大森さんは在任12年、全造船浦賀分会出身で神奈川県評特別執行委員。加藤さんは在任14年で、相模鉄道労組委員長。労委労協関東ブロックは2人の力で公使委員に伍して力量を発揮していた。その2人が88年4月、揃って委員を外された。

 愛知県労働組合評議会(愛労評)議長の成瀬昇委員(在任8年)も労委労協では左派委員として目立つ存在だった。在任中から、連合の前身である全民労協を「反共と労使協調の組織」として敢然と批判していた。89年の連合発足にともない、愛労評は連合の地方組織になり成瀬さんは議長の席を追われた。そして90年12月の愛知県労委改選で、労働者委員も外されてしまったのである。

 成瀬さんも谷内口さんと同じように全国革新懇世話人として活躍したことは周知のとおりである。このようにして、労働委員会から反連合、非連合の委員が放逐され、連合の独占が形成されていく。その中で唯一連合独占を阻んだのが東京都労委だった。それだけに風当たりも突風なみだった。

 前回のブログで星野さんと書いたのは立谷(たちや)幸一さのんの間違いでした。立谷さんの商売は理髪店で今は店舗を新築して営業しています。その他は書いたとおりです。

連合独占阻止

 都労委第29期労働委員の任命は1989年11月1日に行われた。13人の労働者委員の内訳は、東京地評5人、東京同盟4人、中立労連東京3人、新産別東京1人であった。この任命と時を同じくして連合、全労連が発足。東京地評は連合に行かなかったが、全逓や全金東京など組織の半分が地評を脱退して新しく結成された連合東京に移った。その際地評残留組と連合移籍組で財産分与の話し合いがもたれた。

 地評推薦5人の都労委労働者委員枠は無形財産の重要な一つだった。財産分与の話し合いの焦点になったが、地評3人、連合移行組2人ということで収まった。そして91年11月の第30期委員任命を迎えることになる。突如連合東京は約束を無視して定員いっぱいの13人を推薦、連合独占を謀った。

 30期労働者委員任命には、連合東京13人のほか東京地評3人、東京労連(準備会)4人、その他(後に結成される全労協系)3人が推薦され、定員を10人もオーバーした。6月から10月にかけて西新宿に移転したばかりの都庁前でのビラ配布や対都交渉の結果、連合東京が推薦を2人減らし東京地評の枠を空けた形で決着した。その結果、国労東京の佐藤智治さんと私が任命されたがともに留任だった。

 全国的に見ても労働者委員の連合独占を阻んだのは東京だけということになる。しかも私は29期までで7期14年、都労委で最も長い経歴を持つ。経歴だけでなく、都労委不当労働行為事件の係属総計374件のうち138件(36.9%)を担当していて、いわゆる潮流間事件は私の一手引き受けだった。

 30期発足時に私が担当していた潮流間事件=「雪印乳業(差別)」「石川島播磨(差別)」「朝日火災(差別・配転)」「明治乳業(差別)」「国民金融公庫(差別)」「日立中央研究所(差別)」「山武ハネウェル(差別)」「石川島播磨(出向・解雇)」「大日本印刷(差別)」「営団地下鉄(支配介入)」「日本ペイント(差別)」「エールフランス国営航空(差別)」

 これらの事件は、連合加盟もしくは労使協調の企業内労組の中で、会社と組合双方からの迫害とたたかっている争議団が申立人である。連合にとっては獅子身中の虫ともいえる集団なのだ。これらの申立について労働委員会はそれまで基本的には救済する姿勢を貫いてきた。その流れを変えていきたい。それは大企業労務関係者および連合派労組幹部の共通した願いであった。

末廣使用者委員

 ここで、都労委で審査中の明治乳業事件に話を戻すことにする。1985年4月18日に申し立てられた「60年不27号」事件は同年10月25日から審問に入り、まず申立側の加賀谷武喜証人の尋問が行われた。3回の主尋問、4回の反対尋問(4回目の後半は補充尋問)、さらに補充尋問に1期日あてて86年11月25日に終了。次回12月19日から小関守証人の主尋問が始まった。

 この間、86年3月19日付で61年不20号と同21号が申し立てられ審問中の事件に併合された。これで申立人は32人となる。以後も年1回の申立が続きその都度併合された。後に結審時になってこの併合の如何が問題になるがまだ先の話である。小関証人の尋問は淡々とすすんだ。

 小関証言が終了にさしかかった87年11月1日付で、担当労使委員の交代があった。労働者側はそれまでの森武郎委員が退任したため戸塚に替わり、使用者側は新任の末廣毅委員になった。森さんから私への交代は、潮流間差別という事件の性質から特に森さんが戸塚を指名したもので、当時はそのような事件引き継ぎが可能であった。なお高田章公益委員、事務局の三村さん、小山さんはそのままだった。

 末廣委員は日経連推薦で1931年8月生まれ、当時の肩書は三井海洋開発常務取締役。あの三井三池炭鉱で労務畑を歩き、1960年の大争議では会社側の先兵として総評・炭労を相手にたたかった経歴を持つ。都労委3者委員の親睦旅行などで酒が入ると労組嫌悪の感情を隠さずに攻撃する人物だった。

 末廣委員があまりにも単純な男なので、私は少し見くびりすぎていたきらいがある。公益委員の学者先生やお役人の事務局は、このような恫喝まがいの言辞を吐く押しの強い男に対しては弱い、腰が引けるということをもっと警戒しなければならなかった。彼が肝胆相照らす中山社長とタッグを組んだことは間違いない。

黒川、沢井証人

 88年1月22日に小関証人の尋問が終わり、次が伊藤満証人。2回ずつの主・反対尋問で同年7月22日に終了。これで労働者側の総論立証が終わり、9月2日から会社側黒川孝雄証人の尋問が始まった。この主尋問は山田弁護士が受け持ったが、黒川証人の申立人ら憎しの感情を巧みに引き出した。

 「明乳労組市川支部の昭和38年度執行部に申立人らが進出、過激な労働運動を始めた。本部の指示に従わず、三六協定を結ばず、販売店に押しかけ営業を妨害・・・」。黒川証人の申立人らの組合活動への非難・誹謗中傷が延々と続く。あまりの酷さにヤジを飛ばすと高田公益委員は「傍聴席黙れ!」とこちらを叱った。


黒川証人の「申立人らの不当・違法な組合活動」を立証するための証言が続く。

 「昭和40年(1965年)9月の女子2人の配置換えにからんで執拗な職制つるしあげが行われた」「あまりに激烈な職場闘争のために職制が疲れきって『転勤させてくれ』と言いだす」「41年5月25日の小林係長つるしあげ事件は酷かった」「仕事を妨害するためにコンベアシステムのメインスイッチを切ったこともある」「申立人らの同調者の中には『残業する奴は敵だ』と言うのもいた」

 「これらの班長に対するつるしあげを阻止するためやむを得ず決起したのが明朋会である」「牛乳瓶のキャップとりの下請化に、本部の了承方針に服せず支部は反対」「三六協定を10分間の細切れ締結にする」「40年3月1日の労使合意の生産委員会答申書に基づく夜勤三交代に支部はあくまで反対する」

 「(40〜41年度の申立人らの勤怠資料を提出)ポカ休が多くてライン作業に影響が出た」「メーデーや平和友好祭、日韓条約反対行動に30〜40人が一斉に休んで参加する」「病気欠勤の届けを出しておきながら組合集会に参加していた例もある」「牛乳を盗飲し、殺菌室で立ち小便する」

 「食品工場なので従業員の健康は大切だが、申立人ら集団は健康診断に応じない。検便も提出しない」「無届のビラ配布は日常的、ビラの内容も『三交代は首切りへの道』などと虚偽の宣伝」「カンパに応じない組合員の分のチェックオフを要求する」「三六協定を結べという本部指示を無視する」

 よくもまあ20年以上も前のことをベラベラしゃべりたてたものである。本来、差別事件の会社側総論立証といえば@会社組織の概要、A賃金・昇格制度の解説、B考課制度の妥当性・合理性などの証言が普通である。それがのっけから申立人らの「組合活動」がいかに不当・違法なものであったかの立証だ。

 何故このような立証方法をとったのか。それは明乳という会社の体質、労務管理の根っこにある「反共謀略思想」からきているのだ。黒川証人はその体現者として最もふさわしい人物であった。

 黒川証人の「申立人らの不当・違法な組合活動」を立証するための証言が続く。

 「昭和40年(1965年)9月の女子2人の配置換えにからんで執拗な職制つるしあげが行われた」「あまりに激烈な職場闘争のために職制が疲れきって『転勤させてくれ』と言いだす」「41年5月25日の小林係長つるしあげ事件は酷かった」「仕事を妨害するためにコンベアシステムのメインスイッチを切ったこともある」「申立人らの同調者の中には『残業する奴は敵だ』と言うのもいた」

 「これらの班長に対するつるしあげを阻止するためやむを得ず決起したのが明朋会である」「牛乳瓶のキャップとりの下請化に、本部の了承方針に服せず支部は反対」「三六協定を10分間の細切れ締結にする」「40年3月1日の労使合意の生産委員会答申書に基づく夜勤三交代に支部はあくまで反対する」

 「(40〜41年度の申立人らの勤怠資料を提出)ポカ休が多くてライン作業に影響が出た」「メーデーや平和友好祭、日韓条約反対行動に30〜40人が一斉に休んで参加する」「病気欠勤の届けを出しておきながら組合集会に参加していた例もある」「牛乳を盗飲し、殺菌室で立ち小便する」

 「食品工場なので従業員の健康は大切だが、申立人ら集団は健康診断に応じない。検便も提出しない」「無届のビラ配布は日常的、ビラの内容も『三交代は首切りへの道』などと虚偽の宣伝」「カンパに応じない組合員の分のチェックオフを要求する」「三六協定を結べという本部指示を無視する」

 よくもまあ20年以上も前のことをベラベラしゃべりたてたものである。本来、差別事件の会社側総論立証といえば@会社組織の概要、A賃金・昇格制度の解説、B考課制度の妥当性・合理性などの証言が普通である。それがのっけから申立人らの「組合活動」がいかに不当・違法なものであったかの立証だ。

 何故このような立証方法をとったのか。それは明乳という会社の体質、労務管理の根っこにある「反共謀略思想」からきているのだ。黒川証人はその体現者として最もふさわしい人物であった。

 黒川証人の尋問は88年9月2日から89年9月20日まで、主尋問3回、反対尋問5回、補充尋問労使1回ずつの計10期日、1年に及んだ。次が沢井唯三郎証人で、尋問者は山田弁護士から平井弁護士に替わる。1966年(昭和41年)3月19日に総会を開いて発足した明朋会についての証言だ。

 「40年1月頃、申立人らは始業時間ぎりぎりに出勤する闘争戦術を始めた。これに対して私が賃金カットをするよう上司に具申し賃カツが行われた」「洗瓶職場では申立人らのサボタージュでトラブルが絶えなかった」「作業ズボンのポケットに『学習の友』を入れて職場に入り、それを読んでいた」「『いつかおれたちの時代が来る。その時はお前は刑務所行きだ』と言われた」「こんな状態を放っておいたら会社が潰れるのではないかと思った」「真面目な従業員は『会社に来るのが嫌になる』と悩んでいた」。

 沢井証人も黒川証人に負けず劣らず申立人らの組合活動がいかに過激なものだったかを喋り立て、そんな職場を立て直すために班長たちを中心に立ちあがったのが「明朋会」だったと話をつなげた。「明朋会発足総会には班長、班長代行ら70人が参加。会費は月50円(後に100円)で自主的に運営した」。

 ここまであることないこと言いつのると当然ながらボロが出る。反対尋問で「サボタージュした人」「学習の友を読んでいた人」「お前は刑務所行きだといった人」はすべて申立人らではなく、すでに退職した人だったことを認めざるを得なくなる。事実との食い違いを追及されて言葉がつまり、涙声になることもあった。

 会社が総論立証の1番、2番バッターに黒川、沢井証人を立てたのは残念ながらそれなりに効果があった。2人の証言はウソと誇張に塗り固められたものだったし、反対尋問で崩れた事実もかなりあった。しかし、会社労務が執筆した陳述書を元に、経営法曹の重鎮である山田、平井弁護士に誘導された1年半の尋問は公益委員や事務局職員の頭の中にしっかり刷り込まれた。しかも審問速記録が証拠として残ったのである。

 60年代から70年代にかけて大企業の職場で青年労働者が立ち上がり、階級的民主的労働運動を始めた。これを潰すために、富士政治大学、「全貌社」、三田村学校、佐野博の日本政治経済研究所などの反共謀略組織が暗躍した。かれらの手口は、青年たちの組合活動を「企業破壊」「革命の準備」「職制つるしあげ」「サボタージュ行為」などと誹謗し一般労働者を怖がらせ、インフォーマル組織をつくり、そして会社と一体になって組合執行部を乗っ取ること。その手口を都労委でも実行したのである。

成川事務局員

 中丸弁護士による沢井証人の反対尋問は90年1月12日、2月2日と続き、次が3月18日に設定された。しかしこれが高田公益委員の急病で中止。結局、公益委員が交代してその年の7月10日に審問再開となった。新しい落合誠一公益委員は都労委2期目で1944年生まれ。東京大学法学部教授。

 時を同じくして事務局職員の1人も三村さんから成川美惠子さんに代わった。三村さんはたぶん局外異動だったように思う。成川さんは1947年生まれ。70年に東京大学経済学部卒業、同大学博士課程を経て72年農林中央金庫入職、74年東京都庁入庁、82年から東京都労働委員会事務局審査課(経歴は98年に総合労働研究所から出版した直井春夫・成川美惠子共著「労委制度ノート」より引用)。

 7月10日の期日は前半分が調査で、後半分で沢井証人の反対尋問が行われた。調査の冒頭落合公益委員は「新件の平成2年不8号の併合を確認します」と宣言。これで60年不27号、61年20号、同21号、62年17号、63年22号、平成元年20号、2年8号の7件併合審査となったわけである。

 この7件併合確認は労使委員、事務局、申立人、被申立人の同席で行われたもので、調書にも記載されたはずであった。にもかかわらず命令前に覆されることになるのだが、それはまだ先の話である。

 代わったばかりの落合公益委員だったが、次回の9月25日にはまた新しい公益委員となる。やはり東京大学法学部教授の新堂幸司氏。新堂氏は公益委員在任中の88年4月に学部長になったため退任、90年8月1日付で再任されたばかり。経歴と実績を買われて明乳事件を持たされたものと思われる。

 新堂公益委員は1931年生まれ。民事訴訟法の大家で著書も多数。労働委員会の公益委員としても手際良く事件を処理し、判断が早く審査指揮も的確。87年4月の国鉄民営分割・JR発足でどっと全国の労働委員会に申し立てられたJR事件のうちで最初に命令の出た「新宿車掌区事件」を担当。申立から10ヵ月で全部救済命令を発した。たまたま私が労働者t側参与委員だったが、その素早い仕事ぶりに敬服したものだ。

 私は明乳事件が新堂公益委員になったことを心強く思った。黒川、沢井証言で変なムードになっている審問進行が普通の賃金差別事件に戻ることになるのではないかと期待した。審問進行もさることながら新堂公益委員は和解の進め方も他の公益委員とは一味違った。この点でも期待は大きかった。


 1990年3月から9月にかけて高田委員の病気により明乳事件担当の公益委員は落合委員、新堂委員と目まぐるしく変わった。ところで高田委員はもう一つ、食品関連の潮流間差別事件を担当していた。80年7月12日申立の雪印乳業(55年不63号から62年不9号までの4件併合)事件である。

雪印乳業事件の和解

 雪乳の担当はは当初、全電通出身で千代田区労協議長もやった深見勇さん。深見さんの退任(87年10月)で東京地評プロパーの神地金吾さんが引き継いだ。東京連合へ移籍した神地委員は東京地評わくで出ていたため、任期途中の90年5月1日付で国労東京地本委員長の佐藤智治さんと交代になった。

 神地委員の担当事件は佐藤委員に継承されたが雪乳事件だけは戸塚となった。これで当時都労委に係争していた潮流間事件はすべて戸塚担当になった。この頃は申立組合や争議団の希望で労働者委員が決まるシステムだった。その方が審査進行がスムースだし、和解になった時は大いに威力を発揮したからだ。

 雪乳事件の使用者委員は、住友重機の元労務担当で系列の大島造船所会長の兵頭傳委員。兵頭さんは1924年(大正13年)生まれ。審問はほとんど欠席だが和解になると熱心に会社側の説得に当たった。雪乳事件は申立から10年、以前に和解の試みもあったが双方乗り気にならないまま話し合いは壊れたようだ。私が担当に決まるとすぐに兵頭さんから「この事件を和解で解決したい」と話があった。

 病気療養中の高田委員に代わって兵頭、戸塚の労使委員による和解打診となった。6月20日にまず会社側を呼んで和解のテーブルに乗るように提案、次いで6月22日に同じ趣旨を争議団側に伝えた。兵頭さんも私も事前に当事者の同意を取り付けてあったのでスムースな和解スタートとなった。

 結局雪乳事件の和解は94年3月に成立・調印に至るのだが、高田公益委員は始終お飾りの存在。兵頭、戸塚で仕切る形になった。そのことが明乳事件の審問、調査、和解、命令にかなりの部分影響を与えていると私は思う。どんな影響なのかはこれからの検証の中で明らかにしていきたい。

 病気療養中だった高田委員は90年11月1日の雪乳事件和解から業務復帰したが、明乳事件は新堂委員のまま。91年4月1日の都庁新宿移転を挟んで淡々と会社側総論立証が続けられた。そして迎えたのが91年11月1日の第30期委員任命である。潮流間事件への敵意をこめた包囲網が張りめぐらされることになる。

 1991月11月1日付の都労委30期委員任命で労働者委員の内訳は、東京地評2、連合東京11となった。地評の2人は私と国労東京地本委員長の佐藤智治委員。鈴木都知事が出席した任命式が終わると13人の労働者委員が控え室に集まった。いわゆる「労側打合せ会」である。ここで私たち地評選出委員には何の相談もなく成嶋久雄委員(全逓東京地本特別執行委員)が幹事と名乗って司会を始めた。

 成嶋委員は私に向かって「戸塚委員は申立人及び関係団体と今年中に協議を行い、受け持ち事件の移行について、公平化に協力すること」と言い渡した。さらに「戸塚委員の報告を待って来年1月以降順次公平化をはかっていく」と提案。私か反発するのを尻目に連合選出委員の賛成多数で確認事項にしてしまった。

 後に「公平化」は「平準化」と言い変えられたが、私の担当事件を闇雲に拡散させようとする意図はますます露骨になった。しかも狙いは「潮流間事件」に定められ、私の一手引き受けからどのように奪い取るかが焦点となった。。その天王山の争いになったのが「凸版印刷」と「日立製作所」の潮流間差別事件である。

 「凸版印刷」(4年不47号)は92年10月9日、「日立製作所」(4年不50号)は同じく10月19日に申し立てられ、10月20日の都労委総会で担当三者委員が決まることになっていた。総会に先立って開かれた労側打合せ会で成嶋委員から「平準化を進めるため、凸版は丸雄丞委員(東交委員長)、日立は河井正治委員(日本精工労組顧問)にお願いする」と提案。私が猛反発したが多数で押し切った。

 凸版と日立の申立人、弁護団も怒った。両事件とも公益委員が調査をやろうとしても参与委員問題で紛糾し実質審議に入れない。いろいろ裏の工作もあって、93年3月2日の都労委総会で両事件の私の担当が決まった。私はこの間、国労やJMIUの20件を他委員に移行させられた。潮流間事件を守るためには仕方のないことだったかも知れないが私にしてみれば痛恨の思いがあった。

2度の和解提案

 凸版・日立の参与委員問題で大揉めにもめている最中の92年秋から年末にかけて、明乳事件は一つの契機にさしかかっていた。9月9日に会社側江間俊夫証人の反対尋問が終わり、これから各論立証に入るというところで、新堂公益委員が和解を勧告したのである。雪印乳業事件の和解も順調に進んでいた。私は新堂委員の和解勧告に、これで明乳の早期解決の道が開かれるのではないかと大いに期待したのだった。

 新堂公益委員による和解勧告には伏線があった。前年(91年)10月7日で会社側石田弘証人が終わった段階で今後の進め方についての調査となった。11月14日が第1回調査日。戸塚メモをもとに振り返ってみる。

 新堂公益委員はまず申立側を呼んで「会社から個別立証計画が出ているが」と問いかけた。
 倉内弁護団長「応じられない。既に6年費やしている。今までの立証で不当労働行為は明らかだ。述べ30人、22時間、しかも直属の上司でない伝聞立証だ。会社による引き延ばしの意図しかない」
 守川弁護団事務局長「これは集団間差別事件だ。集団間の格差、会社の不当労働行為意思、申立人らの集団への参加と組合活動を立証してきた。これで十分だ。あら探し立証は認められない」
 加賀谷争議団長「坂口申立人は既に定年。他も50の坂にかかっている。そこへさらに何年かかるか分からないあら探し証人を出してきた。あこぎなことをするなと言いたい」

 次に会社側。新堂「申立側は個別立証には一切応じられないと言っている」
 鈴木弁護士「組合が二つある事件と違う。個人申立だから個別に審査してもらわなければならない。人事考課の正当性についての立証は成績不良者のみ行う」
 平井弁護士「申立人グループ内でも賃金差がある。何故なのか。正しい人事考課の結果だ」

 新堂「申立人らは基幹監督職を請求しているが」
 鈴木「職分制導入時、対象者6000人のうち申立人を含む465人が移行格付け試験を受けなかった。自らこのコースを選択したのだ。このコースの最終職分は基幹職1級だ。申立人らの半数は基幹職1級だから差別はない。中に基幹職2級の人がいるからそれらの低査定の理由を立証しようというのだ」
 平井「例えば申立人の中でも伊藤さんは年収450万、加賀谷さんは350万だ。試験を受けない人の間でも差が生じる。それが人事考課であり、その正当性、合理性を立証しようというのだ」

 戸塚メモによるとここで突然新堂さんが「和解の目はないか」と聞いている。鈴木弁護士が「難しい。これから本格的に争うというところだ」と断る。その日はそれで終わった。18:30から始まった調査が20:30になり、新堂さんは双方に次回調査続行を告げた。
  
 次の調査は91年も押し詰まった12月25日に行われた。新堂公益委員は前回調査で会社側に和解を勧めたが頭から問題にしない態度で断られたため、和解を諦め審問を継続する考えになったらしい。会社から膨大な個別立証の証人申請が出されているが、それを全部採用していたらいつ終わるか分からない。

 そこで会社側証人を絞るためにも本件の争点整理が必要だとして、双方に「新職分制度移行時の格付試験そのものが不当労働行為だったかどうか改めて双方の主張を出してほしい」と要望した。争議団側弁護士は「それは6年間の立証で済んでいる」と抵抗したが、最後はは同意させられた。

 92年2月7日と3月26日にも調査が行われたが「試験制度の立証」についての詰めの議論で、結局申立側小関守証人、会社側江間俊夫証人が立ち、それぞれ主尋問、反対尋問一回廷ずつということになった。なお3月26日の調査では、争議団が申し立てた平成3年不9号と4年不6号の併合が宣言されている。これで審問中の明乳事件は60年不27号以下8年分の9件が併合となったのである。

 「試験制度の立証」はまず申立側小関証人が5月20日に主尋問、7月1日に反対尋問。次いで会社側江間俊夫証人になった。江間証人は中央大学法学部卒。入社してすぐ組合専従になり、新職分制導入の1968年は明乳労組本部書記次長(専従)、69年は書記長をしていた。元組合幹部というより生粋の労務官僚だ。

 彼は新職分制導入時の労使交渉がいかに民主的に粘り強く行われたかについて、鈴木弁護士の誘導によって事細かく証言した。これによって当時の労使関係が正常に運営されており、不当労働行為の入り込む余地はないという会社主張が審問調書に克明に残った。新堂さんには別の意図があったのか知れないが、調書が独り歩きして後の不当な棄却・却下命令に行きついたと言えなくもない。

 9月9日に江間証人の反対尋問が終わり、さていよいよ個別立証に入るというところで10月6日、調査期日が入った。92年10月は凸版印刷と日立製作所の事件が申し立てられた月だ。2事件ともに連合委員の担当にされたのを不服として、20日の都労委総会で戸塚が担当を申し出る。それからしばらくはこの問題を巡って都労委は紛糾の渦が巻き起こる。右翼的労働運動と対決する潮流のたたかいが正念場を迎えた時期だ。10月6日の調査の席上、新堂公益委員は心情を吐露しながら会社側に再度和解を勧告した。

 92年10月6日18:10からの調査はまず申立側を呼んで新堂公益委員から和解を勧告。倉内弁護団長が「前向きに検討する」と受け入れを表明。新堂「試験制度についてどうお考えになるか。両者の折り合いをつけることが焦点になると思う」加賀谷争議団長「試験を受けても受けなくても会社は差別する意思があったということだ」新堂「そのことを含め過去の問題をどう処理すべきかが課題だ」

 18:25、会社側入室。新堂さんは言葉を選びながら会社側の説得に入った。「私なりに本件の枠組みに心証を得た。いつまでも争う事件か。いい潮時だと思う。労使両委員にも相談して、委員会として和解を勧告したい。これからの証人調べを考えると気が遠くなる。それよりもなるべく早く双方が将来へ向かって対処を考えるへきではないか。申立側にも強く勧めたが、会社としても積極的に対処願えないか。即答は無理だと思うので、会社として、ここらあたりからスタートしたい――といった条件を次回お持ち願えないか。壊れる和解をズルズル引き延ばすつもりはない。しかし一度や二度お互いの条件を聞くことは無駄ではないと思う。過去の差別の処理、将来のこと、例えば人事考課や試験制度を申立側が認めていくのかどうか。難しいだろうがネックがあるからこそ話し合いのきっかけになるのではないか」

 新堂さんの発言に続いて末廣使用者委員が口を開いた。「現在会社は申立側と真正面から対決している。和解は難しいかも知れない。しかし命令が出ても解決にはほど遠い。トラブルを抱えての企業運営はどんなものか。一方正義は生かされなければならない。その調和が問題だ」

 公使委員の和解の勧めに対して会社側の態度はまるで素っ気ない。平井弁護士「和解など会社は全然考えていない」鈴木弁護士「会社は個別立証の計画を出した。対案があるなら示してほしい。和解など考えられない」

 この会社側の態度に新堂さんもカチンときたらしい。「個々人の成績と言うが、過去の事をつつき出してどれほどプラスになるのか。命令を出してもいいが、どちらも納得しないだろう。ラストまで争うことになる。なぜそんなに怨念を持たねばならないのか」と疑問を呈した。

 この新堂さんの問いに答えたのは弁護士でなく会社側労務(氏名不明)。「いま職場の人はこの審問に注目している。自分たちの処遇以上に何故申立人らが優遇されねばならないのか。逆に不公平ではないか。この事件は申立人らと会社の争いでなく、一般の従業員との争いなのだ」

 「会社との争いでなく職場の一般の人と申立人の争いだ」という会社労務部の主張は「だから会社が和解を受け入れることはできないのだ」ということにつながる。私はこれを聞いていてこれは重要な発言だと気がついた。職場に意見の違う二つの集団があって争っている場合、会社は中立の立場をとらなければならない。会社に都合のいい集団を援護し片方を排除しようとするならそれは立派な不当労働行為だ。 

 新堂さんは「だったら余計に(会社として)何を争わなければならないのか」と指摘した。それには会社側から直接の返答はなく、黒川氏が「差別があるというなら何故10年も放っておいたのか」と別の論点に議論を移す。それを受けて平井弁護士が「彼らは自分でコースを選んだのだ。それを組み立て直すことなどできるわけがない」と強い拒否反応を示した上で「会社の意見を調整したい」と休憩を求めた。

 別室で行われた会社の意見調整に参加した末廣使用者委員が戻ってきて「会社周辺で争議団が『和解に応じろ』と叫んでいる。和解に入ることはそれに屈することになる。とうてい和解提案に応じる状態ではないが、労委からのたっての勧めでもあるし持ち帰って検討する」との結論をわれわれに伝えた。

 新堂さんは「次回までに検討されるというのてもう一度和解期日を設定したい」と告げてその日はお開きにした。私は新堂さんの粘り腰に和解への並々ならぬ決意を見た。同時にこれだけ熱心に和解を勧めるというのは、命令になった場合、救済は難しいとの心証を持っているのではないかという危惧も抱いた。

 次回11月18日、会社側は予定された個別立証の証人申請者を含めて大量の出席で調査の席に臨んできた。戸塚ノートによる出席者名。弁護士=鈴木、平井、山田。労務=黒川、吉川、岩下、川島。証人申請者=柳沢、藤岡、足立、青木、長谷。和解を巡る労委との駆け引きに幕を下ろそうとする会社なりの意気込みが感じられた。冒頭から「和解はないというのが結論。早く個別立証に入れ」と喧嘩腰だ。

 こうなってはどうしようもないので、新堂公益委員は「和解断念」を宣言し、個別立証の調整に入ることを申立側に告げた。ここで申立側は怒った。守川弁護士は「労委から和解の勧告があった。こちらは受けた。会社が頑ななことは分かっていたはずだ。もっと説得すべきではないか。個別立証に入ることには基本的には反対だ。大体予定されている証人は若手の労務部員で申立人らの勤務ぶりなど立証できるわけがない。無意味な立証に時間を潰すことに協力はできない」と強く抗議。新堂さんは困ってしまった。

 申立側守川弁護士から強く抗議された新堂公益委員は「おっしゃる通りだろうが、会社説得はやるだけ無駄なような気がする」とぼそぼそ声。「そもそもあなた方が強過ぎるのではないですか。市川工場では勢力五分五分だというし」。変なことを言うなと思ったが、私も争議団側も反論しなかった。

 そこで会社側を同室させ、新堂さんが「次回もう一度調査期日を入れる。申立人から強く和解の声があったので会社は検討してほしい。しかしいつまでも審問をとどこおらせておくわけにもいかないので、次回は個別立証の方法についても結論を出したい」と言明。労使双方うなずいて散会した。

 93年1月20日の調査当日。新堂さんは会社に「和解の再検討を」と促したが会社の頑なな姿勢は変わらない。そこで「和解断念、審問再開」となる。

高田公益委員

 3月8日から始まった会社側の個別立証は94年1月13日まで10期日を費やして行われたが、若手労務部員の伝聞証言ばかりで内容は惨憺たるもの。

 続いて申立側米元裕、桜井隆夫が会社立証に対する反論証人として立つ。それが終わったのが94年8月24日。これで明乳事件の約2年間にわたる個別立証の攻防が終了したことになるが、この間、明乳事件およびその周辺では次に掲げる3つの注目すべき動きがあった。@大日本印刷のビラまき解雇事件の申し立て、A明乳担当公益委員の交代(新堂→高田)、B雪印乳業賃金差別事件の和解調印。

 大日本印刷ビラまき解雇事件(平成4年不40号)は92年7月15日の申立。同年6月15日、早稲田大学門前で大日本印刷争議団が行った「そこが知りたい マル得 就職ガイダンス」とのビラ配布行為を理由に解雇3人、出勤停止2人、懲戒4人の処分を通知。これを不当労働行為として処分の撤回を求めた。企業内労使協調組合を批判して活動する少数派集団に対するいわば「潮流間解雇事件」だった。

 92年7月15日に申し立てられた大日本印刷ビラまき解雇事件は、8月27日と9月28日の調査を経て10月19日から証人尋問に入り、93年11月30日の第11回審問で結審した。94年1月13日の調査期日で和解を打診したが会社が強く断ったため命令作業に入った。命令については後述するが、命令作業に携わった事務局職員の1人が明乳事件と共通の成川美惠子氏だったのである。

 新堂公益委員はあらかじめ11月の委員改選で退任する予定でいたらしい。当時62歳。会長代理だったのだから、1911生まれで82歳の古山宏会長が辞めれば次期会長が望めたはず。2年前に東大を退官し東海大学法学部教授になった。同時に弁護士活動を始めたため、そちらに仕事のウェートを移すことを考えたみたいだ。いずれにしても明乳事件は新堂さんから再び高田委員に戻ることになったのである。

 ここで高田公益委員について詳しく触れてみたい。高田さんは1926年生まれで当時67歳。明治学院大学法学部教授で、79年に公益委員に。足が不自由で少し引きずるような歩き方をしていた。言葉は丁寧で日頃は温厚な紳士だが、審問廷で傍聴者がヤジを飛ばしたりすると「黙れ!」と怒鳴ることもあった。

 高田さんの一番の業績は1981年申立の「和田製本工業事件」(56年不124号)だと私は思っている。劣悪な労働条件のもとで全印総連の労働組合を結成しがんばった5人の組合員に対する賃金昇格差別事件。組合側は5人で弁護団を組み、団長は今は亡き小島成一弁護士が努めた。

 事件担当は公益委員が高田さんで、労使委員は私と森田弥一さん。3年間かけて審問をやり、和解の試みもしたが決裂して命令へ。命令合議の公益委員会が4回もかかるという難産の末、85年7月25日に交付。これが予想以上の完全救済命令だった。@申立時から6年遡っての救済、Aバックペイに年6分の金利を付加、B10日間の謝罪文掲示を命令、これらは都労委の前例を破る画期的な内容だった。

 この内容について小島弁護士は後に「この都労委命令は、私は、簡単に出たとは思っていません。公益委員会が非常にもめたそうです。4回もやっている。普通の事件ではこんなにやりませんよ。ですから担当の公益委員の高田先生ががんばった。他の公益委員は前例がないからいかがなものかといったと思う。それに耐えて高田先生は徹底的にがんばったと思うんです」と述べておられる。

 この和田製本事件で高田公益委員は、申立人らの働いている和田製本工業練馬工場に異例の現地調査に入った。私も18年の労働委員在任中現地調査をしたのはこの和田製本事件を含め5件しかない。現地調査は使用者委員の同意がなければ実施は難しい。森田使用者委員は出版・印刷・製本業界の裏も表も知ったタヌキのような存在だ。高田さんはよく森田さんを説得して現地調査に協力させたと私は感心したものである。

 もう一つの雪印乳業賃金差別事件の和解成立も高田公益委員がらみである。前述したように、90年3月に担当労働者委員が神地委員から私に変更したことをきっかけにその年の6月から和解に入った。公益委員は高田さんだったが病気療養中だったため、兵頭使用者委員と私の労使委員が進行に当たった。

 高田公益委員の病気が恢復して和解の席に出てきたのは11月1日。この5ヵ月間に兵頭さんと私とで和解路線がほぼ固められていた。その後も高田さんは言わばお飾りで、実質的な進行は労使委員が務めることになる。和解の路線は敷かれたが15年余の労使紛争の溝は深く、進行は紆余曲折し困難を極めた。

 27人の争議団は東京、神奈川の両工場、研究所の三つから構成されており、運動形態にそれそれ色合いの違いがあって意思統一に苦労。なんとか纏められたのは田畑文男団長の調整力によるところが多かった。結局33回の和解期日、3年10ヵ月の年月を費やして94年3月22日にやっと和解成立の運びとなった。

 この雪乳事件の和解最終段階で争議団は3億7000万円の解決金を要求し、会社側は1億800万円がぎりぎりと回答。これを労使委員が個別に折衝して2億7000万円と1億3500万円まで差を縮めた。最後は兵頭さんの説得で会社が2億円を呑み、争議団も納得した。兵頭さん見事な手際だった。

 なおこの和解成立から1年半後の95年10月22日、争議団の一部5人で雪印一般労働組合が結成された。翌年の春闘ではストを決行し、会社はもちろん企業内労組にも衝撃を与えた。「和解で円満解決したのに労働組合を旗揚げして新たな争議を起こすとは何事だ」と兵頭さんに噛みついたらしいが、「組合結成は憲法で保障された労働者の本来的権利だから止めようがない」と一蹴されたようだ。

 雪乳和解の一分始終を注目していたのは争議団関係だけでない。同業の明乳経営者も「いつか我が身」とはらはらしながら見つめていたに違いない。そこで彼らは彼らなりの教訓を読み取ったのだが、それが表に出るのは数年後のことだ。ともあれ申立から14年で雪印争議は勝利解決した。明乳争議団にとってこの勝利の意義は大きい。食品労働運動の前進のためにも今度は明治で勝たねばならない。争議団も弁護団も支援共闘もそれぞれの立場で改めて身を引き締めた。94年はそのようにして暮れた。

併合事件の分離


 さて、話を明乳事件に戻す。前回「94年はそのようにして暮れた」と書いたが、戸塚ノートを読み直すと「暮れる」前にいくつかの注目される発言や動きがあった。今にして思えばそれらが「命令」に影響を与えことは確かだ。93年11月に審査委員が新堂さんから高田さんに変わった時点から振り返る必要がありそうだ。

 94年1月13日の審問で会社側個別立証が終了したが、他の同種事件に比べても問題にならぬ低劣さだった。大体申立人らが組合活動をしていた頃、まだ生まれてもいなかったような労務部員が会社資料だけで証言するのだからその証拠価値はゼロに等しい。さすがの成川事務局員も「戸塚さんあれは酷いわね」と嘆息したものだ。私はこれで会社の個別立証は失敗に帰したと安堵した。

 審査委員が変わったということで、次回3月16日の審問期日の前半を使って労使双方の弁論更新が行われた。申立側は守川弁護士で「移行格付試験は不合理なもの。会社と会社の意に沿った労組が共同して押し付けた差別制度だ。不受験を理由とした差別は不当労働行為である」と述べた。

 次いで会社側の鈴木弁護士。「本件は審理に入るまでもなく却下されるべき事案である。なぜならコース別昇格制度をとる会社人事制度の上から申立人側の是正請求内容は実現不可能だからだ。コース替えをしたいなら詮衡試験を受けて特別昇格の方法をとるしかなく、それをしないなら一般昇格制度でやむを得ない」。この鈴木弁護士の論調がそのまま「命令」で使われることになるとは当時考えも及ばなかった。

 弁論更新の後会社個別立証に対する申立側の反論立証が、米元裕、桜井隆夫両証人を立てて行われた。申立側は会社個別立証への反論は既にやられた個々の反対尋問で十分と判断。改めて新職分制導入時の労使関係、会社の干渉行為、組合活動への恫喝、インフォーマル組織を使った分裂工作などを立証した。

 これに対して会社は、米元、桜井証言に反論する必要があるとして人事部の東野和夫証人の追加を申請してきた。申立側は「必要ない」と言い、私も「桜井証人で終わるはずではなかったか」と抵抗したが、高田公益委員は審査指揮で東野証人を採用した。94年11月10日に行われた東野証人の主尋問は山田弁護士の誘導で、職分制の人材活用上の必要性とその合理的な仕組みについて詳細に証言した。

 94年12月22日、会社側東野和夫証人の反対尋問。最期の審問に当たった倉内弁護士が「これで終わります」と尋問終了を告げた。85年4月の申立以来、審問65回、調査(和解含む)9回、弁論更新3回、9年6ヵ月が費やされた。「証人調べ終了」を宣した高田審査委員は次回の調査期日を入れた。

 95年3月2日に開かれた調査は、当事者の話を聞く前の三者委員と事務局の打合せの段階で大揉めとなった。高田さんが事前に事務局と相談していたのだろうが、冒頭「個別立証の範囲は60−27、61−20、61−21の3件であったので本件命令の範囲もその3件とする」と発言、戸塚が激しく反発した。

 戸塚の言い分。「92年3月20日の調査で新堂審査委員は平成4年不6号までの9件を併合している。その後分離するという審査指揮はなかった。これは事務局作成の調書を見ればはっきりする。会社が個別立証の範囲を3件だけに絞ったというが、それは会社の勝手で、命令の範囲は正式に併合されている9件とするのが当然だ」。事務局も調書に併合事件を分離する記載のないことを認めた。

 三者委員打合せでは結論が出ないので、とりあえず当事者の意見を聞くことにした。まず会社側を呼んだ。平井弁護士が「個別立証の範囲は当然3件だ。もしその後の申立に広げるならその分の年度について改めて立証することになる」といきまいた。論旨は高田さんや事務局が言ってることと同じだ。

 次に申立側が入室。倉内「戸塚委員から聞いてびっくりした。当然併合事件として審査していると思っていた」中丸「3件に絞るという話は一切なかった。不当労働行為は一貫しているのだから個別立証の範囲云々は問題でない」。これに対して高田さんは「私が病気していたのではっきりしないが、併合の経過を調べた上で進め方を決めたい」と結論を先延ばしする考えを示し、次回調査を4月6日に入れた。

 その間、弁護団と争議団に私も加わって対策を協議した。併合されていることは事実なのだから我々の主張は正しい。だが高田さんや事務局の姿勢を見ると、会社が3件限定と主張する個別立証のままで、併合事件全体の命令を書くのは難しいだろう。もしその後の年度の個別立証を改めてやりだしたら、いつ結審できるか分からない。手続き上の不備を高田さんと事務局に認めさせた上で審査指揮に従うとしたらどうか。ほぼそんな方向が確認された。3件限定でも早く命令をとることが先決だとの共通の認識があった。

 証人調べ終了後の2回目の調査は95年4月6日午後に行われた。まず三者委員と事務局の打合せ。高田審査委員が「いろいろ意見があるが、3件だけ分離して命令を出すしかない。戸塚さんの方で説得できるか」と言う。筋が通らないことをしていて「説得できるか」はないだろうと私はカチンときた。

 戸塚は「私も納得できないので説得する気はない。当事者の話を聞いた上で審査委員長として判断願いたい。審査委員長は労働委員会規則によって審査指揮の権限を持っているのだから指揮には従わざるを得ない」と答えた。高田さんも末廣さんも「分かったそうしましょう」とうなずいて申立側を呼んだ。

 守川弁護士か「併合事件はすべて命令が出るものと思っている。会社が3件に絞って立証したといってるようだが立証を限ったのは会社の勝手だ。労委が分離を前提に審問を進めていたといわれるのは納得いかない」と口火を切った。続いて中丸弁護士が「労委として分離扱いになつているのか」とたたみこむと「はっきりしないが私は分離していると思っていた」と高田審査委員は口モゴモゴで応えた。

 再び三者委員と事務局の打合せ。戸塚の「事務局の調書ではどうなっているか」との質問には成川事務局員も「調書の上では平成4年不35号事件まで併合している」と答えざるを得ない。私が「それみろ」という顔をすると「併合決定後個別立証について争いとなり調査を行った。確かに明示の分離決定はしていない。そんなことを言える状態になかった」と付け加えた。私は「高田さんどうしますか」と迫った。

 結局高田審査委員が「本日の段階で併合事件を分離し3件のみの結審とする。命令は3件のみを対象に書く」という審査指揮を行い両当事者に宣言。私と申立側もしぶしぶ了承した。今にして思えば、あの却下、棄却命令を書くためには「3件分離」がどうしても必要だったのだ。

社長に会う

 結審を宣し最終陳述書の提出期限を9月いっぱいとした後、高田審査委員は労使双方の弁護士だけを調査室に呼んだ。最期の和解打診である。
 高田「最終陳述書の提出は半年後だ。その前に和解は考えられないか。今日の即答が無理なら期日を入れてもいいが」
 会社側平井弁護士「本日和解の話があるだろうと思って検討してきたが、現段階では無理だ。委員会が検討せよと言われれば検討はするが」
 高田「審査委員の高田としての強い希望だと受け止めていただきたい」
 申立側倉内弁護士「労委としての和解勧告と受け止める」
 平井「検討するが期日を入れるとなるとお受けできない」
 これで調査は終わった。労使を退席させた後、三者委員と事務局で懇談した。

 三者委員・事務局懇談に関する戸塚メモは次のような簡単なものである。

(三者)水面下でどう動きつけるか
 高田、末廣で明乳社長に会った、おとなしそうな人だった、関東軍、労務の人がこだわっている、「憲法が維持できぬ」 なにか誘い水ないとのらぬ、運動の面で目に見える変化できぬか

 このメモは解説が要る。「動きつけるか」は「最終陳述書提出期限の9月末ころまでに和解の機運をつくれないか」ということ。当時の明乳社長は中山悠で申立人らが組合役員だった頃から対立していた差別政策の張本人。「関東軍」とは満州事変から対支戦争まで本国の意向以上に戦争を拡大した中国駐留の現地部隊のことを指したらしい。つまり労務部が社長(経営の中枢)の思惑以上に和解はダメとこだわっている。ここで和解に応じると「憲法が維持できぬ」つまり労務管理の秩序が保てぬということ。

 次に運動に言及したところが大事だ。運動とは争議団の組合活動のこと。つまり和解の障害になっているのは組合活動(大衆行動)だということを吹き込まれて高田さんもその気になっていると思われる。「変化出来ぬか」は戸塚に「もっとおとなしく」と争議団を説得しろとの要請だ(そんなもの受けられるはずがない)。

 そもそも私は、高田、末廣(それに当然事務局も一緒のはず)で明乳社長に会うという話は一切聞いていなかった。たぶん末廣使用者委員の橋渡しだろう。そのこと自体けしからんことだが、私の10数年の経験からするとそういう場面もなかったわけではない。最高裁判事になった塚本重頼会長などは個別に会社側を説得して和解をまとめたことがいくつもある。今度も高田さんは和解したさの一心だったのかも知れない。

 私も株主総会で中山悠氏を見たことがあるが、争議団に対する戦闘性は相当なものだった。あの中山悠社長を「おとなしい」と高田さんは見た。高田さんの頭の中に「おとなしい社長」対「過激な争議団」という図式ができ上がったのではないか。今にして考えれば「会社側に会ったんだから申立側にも会え」とがんばるべきだった。そうしなかったのはたぶん、私も9月までの間に和解のテーブルができることに期待を持っていたからだろうが、甘い期待だったと言うしかない。

公権力押しつけ

 かすかに望みをつないだ明乳市川事件の和解だったが、結局、何の手がかりもないまま96年9月11日の命令交付を迎えることになる。審査委員と事務局の命令作業は当然ながら直接見ることはできない。しかしその間の都労委内の動きを振り返ると、命令作業との連関がボンヤリだが見えてくる気がする。

 一つは例の「担当事件の平準化」問題である。これは単に「同じ労働者委員なのだから同じように事件を担当するのが当然」というような単純な問題ではない。不当労働行為制度は労働者側からの申し立てを前提とした制度である。これを申立主義という。申立人は自分の希望に合った最良の環境で審査を受ける権利がある。それが担当労働者委員を希望する根拠であり、都労委は過去40数年間そうやってきた。

 連合側の主張する「平準化」の狙いはこの「申立人の希望」を認めず、嫌だと言っている委員を押し付けることにある。これはひいては労働委員会がこれまでの運営の基本にしてきた「当事者本位」を否定することにつながる。つまり「行政サービス機関」から「公権力押しつけ機関」への変質である。

 93年3月に、JR事件4件、JMIU関係事件3件と引き換えに「凸版印刷」「日立製作所」事件が戸塚の担当になり一定の折り合いがついたかに見えたが、連合側の要求はとどまるところを知らなかった。それは単に戸塚に事件を回さないだけでなく、労働委員としての活動の制限に踏み込んできた。

 労働委員会の労使委員は事件に参与するほかにいろんな会議に出席し発言する。全労委総会という年一回の全国規模の会議もあれば、労働者委員だけの労委労協という会議、研修会もある。それらの会議には希望すればほぼ希望通り出られた。出てくれと頼んでも業務多忙を理由に断る委員もいた。

 ところが連合の意向を受けた成島委員(労働者側幹事)は「これからは幹事と副幹事2名を中心に出席する」としてあらゆる会議への戸塚の出席を制限しだした。特に93年11月の第31期委員任命からはあらゆる会議から戸塚を締め出すようになった。当然労側打合せ会は大もめにもめた。

 13人の労側打合せ会では絶対少数で何を言っても通らないため、私は問題を三者委員で構成する月2回の総会に持ち込まざるを得ない。するとそれまで私との関係が良好だった古山会長が極端に嫌な顔をし始めた。古い公益委員や使用者委員は私の主張が理解できるから黙っているが新しい委員は明らかに迷惑顔だった。

 都労委内の動きとしてもう一つ注目しなければならないのは事務局の動向である。労働委員会は三者構成と言われるが、実際は事務局も含めた四者構成である。とくに重要性を増すのは命令作成の段階だ。命令作業には労使委員は直接関わることはできない。命令決定の公益委員会には「意見書」の提出だけ。公益委員(審査委員)の専権事項だ。その公益委員も自分で命令を書くわけではない。書くのは事務局だ。

 都労委事務局の構成はどうなっているか。ここに1991年作成の事務局職員配置図があるのでそれによって見てみる。まず事務局長と次長が1人ずつ。庶務、経理などの総務課が課長含めて18人。斡旋作業を行う調整課がやはり課長込みで9人。不当労働行為の審査事務や命令作業に携わる審査室(以前は課だったが80年代半ばに室になった)が3人の担当課長を入れて31人。これで合計60人になる。

 60人の事務局職員のうち局長、次長、課長の管理職以外は都職労の組合員である。組合員資格のある職員が全員組合員かどうかは不明だが、私が18年接していたかぎりではほぼ全員組合員だ。私は都職労の組織図に詳しくないが、都庁職の知事部局あたりの支部に属し都労委分会を構成している。

 分会は「スクラム」という機関誌を発行していて、半年に一回分会役員を選出する選挙が行われていた。選挙結果が出ると分会役員と労働者委員の懇親会が行われた。都職労もそうだが都労委分会内にも(国労で言えば革同と民同のような)二つの流れがあった(これを便宜上統一派と社民派と呼ぶ)。

 80年代、労線統一という名の労働組合の右翼的再編が進められていた時期、都職労は統一派が主導権を握っていた。私も東京地評存続のための共同行動をしたことがある。結局1989年11月に連合、全労連が発足し、自治労都職労、自治労連都職労に分かれた。都労委分会は自治労(連合)に参加した。 

 分会機関誌「スクラム」は労働者委員にも配布されていた(公益委員にも配られていたと思うが、使用者委員にまで配布されていたかは定かでない)。当時の「スクラム」をみると連合発足まで、都労委分会は統一派の分会長を擁していた。それが連合都職労になったとたん交代になった。代わりに分会長になった職員は私もよく知っている真面目な人だったが、そのバックには強力な社民派の勢力があった。

 都労委分会の変化をますます促進したのが91年11月の第30期都労委委員改選であり、成嶋労側幹事の一方的選任、また例の「平準化」攻撃であった。連合組合内の執行部批判集団による潮流間争議にとって逆風が吹き荒れることになるのである。

共同行動

 潮流間事件への風当たりが強まる中、係属事件当事者同士の共闘を模索する動きが出てきた。同じ潮流間事件といえどもそれぞれ生まれも育ちも違う。自分のところをどう勝たせるかには全力を集中するが、他の争議までは手が回らない。それがそうも言っていられなくなった。外堀が埋められようとしている。

 そんな認識で1994年6月17日、都労委「集団的個人(潮流間)申立事件交流会」が東京地評会議室で開催された。出席者は次の通りである。(弁)弁護団 (共闘)支援共闘・上部 その他は申立人

 日立中研=吉田健一(弁)田中龍男(共闘)中川進吾 大川武宏
 石川島播磨=大森浩一(弁)豊田信雄 坂本伸夫
 大日本印刷=松井繁明(弁)志村新(弁)東金道雄 入谷明宏
 国民金融公庫=原希世巳(弁)吉兼重雄 田口良一 福地春喜
 明治乳業=加賀谷武喜 佐々木洋治
 朝日火災=佐藤香光(共闘)大田決
 エールフランス=山本政明(弁)則武透(弁)谷沢紀 松田順一 南雲恒利 梅木功紀
 凸版印刷=小部正治(弁)碓井邦夫(共闘)品川朝次
 日立東京=篠田保守

 これに差別連の篠崎力、都労委労働者委員の戸塚が加わって31人。今は鬼籍の人もいる。会議は戸塚が都労委を巡るシビアな情勢を、各争議団から事件審査の現状が報告された。5年前の連合・全労連の発足以来、職場では反連合組合員への圧迫が強まり、行政は連合と結託して全労連系を排除しようとしている。都労委では担当労働者委員の「平準化」攻撃が強まる。このままでは命令への悪影響は必至だ。

 というような議論を経て、今までばらばらに進めてきた潮流間事件の共同行動に努めることを確認。取敢えず近い将来命令交付が予想される、石川島播磨(出向・解雇)、大日本印刷(ビラまき解雇)、国民金融公庫(差別)、朝日火災(差別・支配介入)の4事件の争議団・支援共闘が共同行動に取り組むことになった。この日以後、潮流間四団体名でビラがつくられ、都労委への要請行動も共同で行われるようになる。

 しかし共同行動が軌道に乗るかと思われた矢先の1995年3月、四団体行動の鼻さきをへし折るような命令が出る。大日本印刷の申立棄却命令である。私たちの心配は現実のものとなった。

 大日本印刷命令の2ヵ月前、1995年1月12日付で石川島播磨の出向・解雇事件の命令が出ている。この事件も潮流間4事件の一つで、大日本印刷、日立中研、朝日火災と共同行動していた。命令は出向は棄却、解雇は救済という一部救済命令だったが、その判断手法に大日本印刷命令と共通する「企業論理優先」が見られた(なお両事件とも事務局2人のうち1人は成川美惠子氏である)。

 石播命令は「85年以来の円高で輸出に依存する造船部門の落ち込みは深刻になり部門閉鎖・出向が業務上の必要措置となった(要旨)」と会社の言い分を全部鵜呑みにしてしまう。出向は確かに個人的不利益をもたらすが、組合と十分協議し、全社員が協力しているのだから我慢しろという論理だ。

 ただし、出向を拒否したとして解雇された4人については手続き的に不備があったとして解雇無効の判断をくだす。出向命令が出た87年9月、申立人らは都労委に「出向命令留保、解雇などの不利益処分禁止」の実効確保の措置申立を行った。都労委がそれを審議中に解雇を強行したのが不当だとの認定だ。

大日本印刷事件敗訴

 石播は「首の皮一枚」の救済命令だった。私も含め潮流間事件の争議団、弁護団は、都労委の企業寄りの判断姿勢に不安を覚えた。そして2ヵ月後の3月30日、大日本印刷の不当な労働者敗訴命令。早稲田大学の佐藤昭夫教授をして「戦後50年で労働法を忘れてよいのか」と嘆かせたしろものであった。

 大日本印刷ビラまき解雇事件については本ブログ(19)で触れたが、93年11月30日に結審となり命令作業に入っていた。担当公益委員は飯畑正男氏、事務局は渡辺圭二、成川美惠子の両氏。飯畑氏は第2弁護士会所属の弁護士だが、審問中から労働者側に対する偏見を持った審査指揮が目立った。

 飯畑氏は93年11月1日の任命だから結審まで1回の審問にしか出ていない。この事件は11月30日に結審を宣言し、最終陳述書の提出期限を94年3月31日と決めてから、1月13日、2月14日、3月17日と3回の調査期日を入れた。

 そのこと自体は和解含みということもあって別に問題ないのだが、3月17日の調査の席上会社側の新たな書証を受け取ってしまった。都労委では結審後の書証については結審前に提出を予定されていたような場合以外は受理しないことになっている。これは新人公益委員を補佐する事務局の不手際だったが、飯畑氏は「裁判所でも結審後に書証を受け取ることがある」として申立側代理人強い抗議にもかかわらず受理することに固執した。それで調査の席は揉めにもめる。私も机を叩いて飯畑氏に詰め寄る場面があった。

 大日本印刷ビラまき解雇事件の都労委命令について佐藤昭夫早大教授(当時)が著書「労働法学の方法」(1998年刊)の中で的確に論評している。佐藤教授は大日本印刷争議にずっとかかわり続け都労委審問の傍聴にも見えられた。私も親しくお話させていただいたが、労働運動大好きの気さくな先生だ。

 佐藤教授が特に問題にする命令判断は次の部分である。
 《宣伝活動は、それが組合活動として行われる場合であっても、争議行為の場合と異なり、業務阻害の結果が一定 限度で法的に許容されるというものではなく、また、労働者が雇用される企業の社会的体面や信用を不当に毀損することまで許されるものでもない》
 
 《会社が採用活動それ自体において社会的に許容される範囲を逸脱していると解さざるを得ない行為を行っていると認められるような事実は何ら存在しないにもかかわらず、就職先を選択しようてする学生らを対象として、本件会社の名を挙げて、会社への入社志望について動揺を招来せしめる組織的働きかけを行うことは、それが組合活動としてなされたものでも、会社の社会的体面や信用を傷つけ、ひいては会社の採用活動に重大な支障を生じさせるおそれのある社会的に許容されない行為であるといわざるを得ない。そうだとすれば、採用活動において具体的な支障がどの程度生じたとか、ビラの記載が申立人らの主張する真実性のルールに支えられていたか等の点を論ずるまでもなく、すでにその目的、態様において正当な組合活動の範囲を逸脱したものであるとの評価を免れることはできない》

 この都労委の「判断」について佐藤教授は次のように指摘する。
 「その結論と論理は、労働者の意思表示の自由を奪い、批判の自由を許さず、戦争の担い手となることを強制していったさきの大戦の経験、その反省のもとに生まれた基本的人権としての言論、表現の自由の保障、そうした人権を労働者に実質化する条件である労働基本権の保障を、全く無にするものであった」

 その通りである。判断の冒頭部分で都労委は「大日本印刷争議団」は労組法にいう「労働組合」でないとわざわざ、ことさらに認定し、争議団の宣伝行動を否定する布石としている。これは明らかに潮流間事件への挑戦であった。大企業の労使協調組合になびかない「たたかう集団」に対する敵視である。

 大企業の労使協調的労働組合の内部でたたかう少数派集団に対する労働委員会の姿勢がこの時期一段と厳しくなった。大日本印刷のビラまき解雇事件の前年1994年、労働者の請求を否定する2件の棄却命令が出された。日本鋼管京浜製鉄所事件(神奈川労委)と住友金属事件(和歌山労委)である。

 2件とも組合役員選挙への支配介入事件で、申し立てたのは日本鋼管18人、住友金属2人の労働者個人。ここでは日本鋼管事件(神奈川労委平成4年不14号)について取り上げる。

 命令の判断要旨
 @申立人らが「権利闘争をすすめる会」として行ったビラ配布、アンケート実施、春闘パンフの発行、組合役員選挙への立候補及び選挙活動は正当な組合活動と認められるので、これに使用者の支配介入があれば労組法27条1項の救済を受けることができる。

 A「作業長会」「工長会」はその活動の多くが会社の職務遂行活動と密接に関連していることは認められるが、一方で独自の会則を持つ会員の会費によって運営される自主組織でもある。「作業長会」「工長会」が組合役員選挙に関与していたことは認められるが、それが会社の職務遂行活動であるとまでの疎明はない。したがって「作業長会」「工長会」が組合役員選挙に関与していた行為が「会社の指示又はその意を受けて」行われたと判断できない。

 B「労務班長」は非組合員であって組合との折衝が重要な職務であり、その多くが組合役員経験者で「創友会」会員である。したがって円滑な労使関係の維持をはかる立場から組合役員人事に少なからぬ関心を持つことは自然である。本件で問題にされている酒井の行為も組合役員人事と会社人事が競合しないよう調整したにすぎないのであって、(組合)推薦の候補を有利にし、「権利闘争をすすめる会」推薦の候補を不利にするための会社の支配介入とまではいえない。

 ここで問題となるのは「円滑な労使関係の維持をはかる立場から・・・」というくだりである。ここでいう「円滑な労使関係」とは労使協調の連合組合との関係を指す。当然ながら「権利をすすめる会」とではない。「すすめる会」はむしろ「円滑な労使関係」の阻害者、妨害者ということになる。「円滑な労使関係の維持」を免罪符に「労務班長」の組合役員選挙への介入行為を容認してしまう。これでは潮流間事件は救われない。


 95年3月30日付の大日本印刷ビラまき解雇事件の棄却命令は、潮流間事件を都労委に申し立ててたたかっている争議団に大きな衝撃を与えた。どうしてこのような不当な命令が大手を振ってまかり通るのか。これで潮流間事件の冬の時代がくるのではないか。私たちは危機感を強めた。

国民金融公庫命令

 そんな中で迎えたのが国民金融公庫命令だった。95年5月19日、期待と不安で緊張した申立人に手交されたのは申立人19人全員の昇給・昇格を認めた全部救済命令。私たちはほっと胸をなでおろしたのだった。

 「申立人らの職位・給与にに関して同期入庫の者と比較したところ、同人らはいずれの場合も実質的にほぼ最下位に位置するなど外形的には格差の存在が顕著と認められ、同人らの勤務状況を正当に評価した結果であるとの被申立人の主張に妥当性を見出すことも困難であった」(都労委配布「命令要旨」から)

 国金が勝ってこれで潮流間4争議の命令は2勝1敗となった。しかし石播事件の結論は解雇無効だが内容的には企業寄りの論理が強く油断はできない。大日本印刷の方向か国金の方向か、これからの運動が決定づける。そんな問題意識で大日本命令の70日後、6月8日に大日本争議支援共闘会議主催の「労働委員会のあり方を問う6・8集会」が開かれた。私が大日本命令の異常さと都労委の現状について報告した。

 過去30年の解雇事件命令で棄却・却下は18件。解雇相当と認められた違法争議行為は「車検証、キイの保管、車輪取り外し」「座席にオイル、タイヤの空気抜き」「上司・警備員への暴力行為」「工場門扉の閉鎖施錠」などの過激な行為で、言論活動を違法と認定したものはこれまでなかった。

 都労委への変質攻撃=@89年の労働戦線再編成を機に中労委はじめ全国労委で労働者委員の連合独占の動き、都労委では事件担当の「平準化」攻撃、A「公平さ」理由に公益委員が申立人擁護の姿勢を放棄、審問廷の管理強化、立証責任を申立人に転嫁、申立人との面会拒否、質の低下、Bベテラン事務局職員の退職 事務局昇進制度の促進、分会の連合加盟 分会活動の締め付け 管理強化を目指す幹部人事。

 都労委変質の危機感が争議団、弁護団、共闘組織全体で共有され、当面潮流間4争議のうち、残る「朝日火災海上保険」事件の勝利命令獲得へ向けて運動を強めることを確認した。朝日火災のうしろには「日立中央研究所」「明治乳業」「日立製作所(東京)」などが続々控えていた。

労働者委員退任

 この間、労働者委員の「平準化」問題はかなり泥沼化しながら紛争状態が続いていた。連合の意を受けた幹事の成嶋委員が「とにかく戸塚にだけは仕事を回すな」といろんな手を考えて攻撃をかけてきた。私に事件担当させないだけでなく、それまで平等だった内外の諸会議への出席を私が希望するのに行かせなかった。

 争議団・争議組合側も黙ってはいない。JR事件や全印総連の事件で押し付けられた労働者委員を忌避する申立があり、審問廷が大混乱した。調査や審問が大幅に遅れる事件が続出した。私も総会をはじめできうる限りの機会に抗議の発言をした。その結果、新任の沖野威会長が仲介の役を私に申し出たりした。

 そんな混乱の中でも、大企業の労使協調組合内少数集団の潮流間事件だけは守り抜いた。新件の日立、凸版をはじめ、雪乳、日本ペイント、山武ハネウェル、石播、国金、大日本印刷、朝日火災、日立中研、営団地下鉄、エールフランス航空、そして明治乳業はすべて戸塚が担当委員として誰にも渡さなかった。

 95月11月1日付で第32期委員改選が行われる。7月21日が委員推薦の締切日だった。6月27日、東京地評事務局長に呼ばれた。「戸塚さんで押し切れる自信がないので委員を交代してほしい」という話だ。私もうすうすそんな気がしていた。後任に同じ新聞労連東京地連出身の井川常幹を推薦するということを確認して委員交代を了承した。これで9期18年の労働委員生活を終えることが決まった。

 そうなると問題は私が担当していてもうすぐ命令の出る「朝日火災」「日立中研」「明治乳業」はじめ、潮流間事件のすべてをを井川新委員にすんなり引き継がせことができるかどうかということ。戸塚関連事件の争議団・争議組合は「担当労働者委員が任期満了などの事情で変更の場合にはあらかじめ申立人の意向を確認し、これに反する決定を行わないこと」を要求して都労委事務局への要請行動を強めた。

 その結果、退任時点で残っていた戸塚担当の99件は1件も漏らさず井川新委員に引き継がれることになった。成嶋幹事もこのことに関してはさしたる抵抗をしなかったようだ。仲介役を買って出た沖野会長の意向も働いたのではないか。ともあれ、明治乳業事件の命令にとってはほっと一息というところだ。

 井川委員は優秀な組合活動家だが、命令作業の細かい情報収集やウラ・オモテからの事務局への働きかけという点では何といっても経験が物を言う。この時点での委員交代に私は若干の危惧を正直感じてもいた。

 労使委員は命令合議に出席できない。そのかわり意見書を提出することになっている。95年10月末日で都労委労働者委員は退任した私だったが、明治乳業事件の意見書は私が書くことで、後任の井川委員と事務局の了解を得た。私は命令作業にも注文をつけたかったので早めに提出することにした。

 96年1月31日付で沖野会長宛てに提出した私の意見書(全文)は次の通りである。

 
1、本件事件の背景と明治乳業不当労働行為事件
 @日本の高度成長を支えた貴重な労働力
 今回命令が出されようとしている表記3件は明治乳業市川工場に働く32人の労働者の集団的申立事件である。申立人のうち最年長者である沢口昇は1931年(昭和6年)生まれ、52年(同27年)本採用と1人だけ年齢的に離れているが、他は次表の通りほぼ同年代である。
   生年         人数     入社年          人数
 1939年(昭和14年) 1人    1962年(昭和37年)  5人 
 1941年(昭和16年) 1人    1963年(昭和38年) 23人  
 1942年(昭和17年) 3人    1964年(昭和39年)  3人
 1943年(昭和18年)15人
 1944年(昭和19年) 8人    
 1945年(昭和20年) 3人
 申立人らはいわゆる「団塊の世代」より一回り上で、太平洋戦争末期に生まれ、戦後の民主主義教育を受け、60年安保闘争後の労働運動高揚期に主として農村から都会に出てブルーカラー労働者になった者たちである。64年の東京オリンピックを頂点とした日本の高度経済成長を生産点で支えた貴重な労働力であった。

 A60年安保闘争後の労働運動の高揚と大企業の職務給導入
 被申立人明治乳業株式会社も日本経済の高度成長に合わせるように設備を増強し生産能力を高めていった。61年(昭和36年)7月に操業を開始した市川工場は「躍進する明治乳業」の象徴的存在であった。その市川工場に入社した申立人らは当初から「躍進明治」の生産を支え、勤勉と忍耐で過酷な労働に従事した。

 このような企業の「躍進」、それを生産点で支えた恵まれない労働者の存在は明治乳業に限らず日本の主要産業のどこでも見られた。やがて、はじめは過酷な労働に耐えていた労働者、中でも青年たちが労働組合の主導権を握って立ちあがることになる。東京オリンピックを挟んだ60年代中期は日本の労働運動にとって生き生きとした活気に満ちた高揚期であった。ストライキが頻発し、春闘は大幅賃上げをスローガンに激しくたたかわれた。

 日本の経営者はこの労働運動の高揚に早くから危機感をもって対策を練っていた。62年春闘を前に日経連は、「貿易自由化をはじめとして、諸情勢の急速な変転は、職務給化を緊急な課題としつつある」と提起。その年の4月から八幡、富士、日本鋼管の鉄鋼3社に職務給が導入された。その後松下電器の「仕事別賃金」など電機産業が職務・職能給を採用し、やがて全産業に広がっていく。被申立人明治乳業株式会社が69年(昭和44年)4月に導入した「新職分制度」もまさにその一環であった。

 職務・職能給、職分制度が大企業に浸透した頃から、組合の分裂、産業別組織からの脱退 が目立つようになる。職務給は組合攻撃につながったのである。労働委員会に複数組合併存下の諸問題が不当労働行為事件として申し立てられるようになるのはこの時期からである。それは各労働統計にも表れており、また「都労委40年史」にも詳しく記述されている通りである。

 一方、職場で分裂状態になりながらも同一組合に止まり、多数派を目指して組合活動を続けている本件申立人らのような集団も存在した。これらの集団に対する差別事件の申立は複数組合併存下の事件よりほぼ10年遅れて80年(昭和55年)頃から顕在化するようになる。本委員会では「石川島播磨重工業」事件(90年命令)、「国民金融公庫事件」事件(95命令)が有名である。

 B完全かつ抜本的な命令を
 今回の命令対象は表記の3件であるが、明治乳業市川工場の32人はその後も昭和62年不第17号、同63年不第22号、平成元年不第20号、同2年不第8号、同3年不第9号、同4年不第6号、同第17号、同第35号。同5年不第11号、同6年不第23号、同第52号、同7年不第18号と毎年申し立てている。また明治乳業の全国に散らばる工場の労働者32人も平成6年不第55号、同7年不第19号を申し立ててこれに続いた。命令対象の3件は申立からすでに10年を経過している。さらにその後も申立が絶えないことは申立人らへの差別がずっと続いているなによりの証拠である。

 本件の完全かつ抜本的な救済命令を発することは、明乳市川工場における長期間にわたる労使間紛争を解消し、職場の正常化を実現するための契機となることは確実である。このことをまず最初に指摘した上で意見陳述に入ることにしたい。

U、申立人らの「正当な組合活動」
 1、明乳労組市川支部執行部に選出されていた当時の組合活動
  @沢口昇の組合活動歴
 まず申立人のうちの最年長者沢口昇の組合活動歴を見てみよう。
    (年度)
 60年度(昭和35年)  戸田橋支部書記長
 62年度(昭和37年)  市川支部書記長   
 64年度(昭和39年)  関東地区本部委員長
 66年度(昭和41年)  関東地区本部委員長 中央委員会副議長
 67年度(昭和42年)  関東地区本部委員長 中央委員会議長  
 68年度(昭和43年)  関東地区本部専従書記長

  A市川支部執行部における申立人らの役職
    (年度)     
 62年度(昭和37年) 沢口昇(支部長) 
 63年度(昭和38年) 伊藤満(書記長) 
 64年度(昭和39年) 伊藤満(副支部長)加賀谷武喜(執行委員)
 65年度(昭和40年) 加賀谷武喜(書記長)小関守(執行委員)
 66年度(昭和41年) 加賀谷武喜(書記長)伊藤満(執行委員)小関守(同) 松下秀孝(同) 菊池政次郎(同) 桜井隆夫(同)
 67年度(昭和42年) 小関守(書記長)加賀谷武喜(執行委員)桜井隆夫(同)菊池政次郎(同)

  B支部執行部役員以外の組合活動
 他の申立人らもこの時期、職場代議員、教宣部員、青婦部役員、あるいは職場活動家として支部役員を支えてともに活動した。68年度(昭和43年)からは組合役員に立候補しても落選するようになったが、職場代議員には75年度(昭和50年)頃まで就任していた。       

  C市川支部執行部の活発な活動と会社の対応
 申立人らが市川支部執行部の中軸として活動していた時期、支部は明乳労組の中で最も活発な支部であり、会社の「合理化」施策に頑強に抵抗するしぶとして注目されていた。支部執行部は職場代議員を中心として要求をまとめ上げ職場交渉で実現していった。また、スポーツ・文化サークルの育成にも取り組み血の通った団結と職場組織作りを目指した。

 この時期、明乳労組本部も職場からの組合活動の高揚を反映して、腰痛をはじめとする労災・職業病問題で市川支部執行部の方針に理解を示すようになり、63年(昭和38年)には組合結成以来初のストライキ権を確立した。会社はこのように組合が強化されていくのを苦々しく思い、組合取り込みを謀ることになる。それが65年(昭和40年)3月の労使生産合同委員会答申にはじまる大「合理化」計画であった。

 大「合理化」計画の内容は、大量人員削減と三交代制を柱とするものであったが、同時にこの「合理化」施策を会社と明乳労組が労使合同で遂行することによって、これに抵抗する申立人ら市川支部の組合活動家を全体から孤立させ封殺することもねらっていた。

 会社は続いて66年(昭和41年)4月20日には明乳労組との間で「労働意欲欠如者の排除」を謳った「41・1労使確認書」を取り交わして市川支部孤立化に追い打ちをかけた。この「労使生産合同委員会答申」(65年)、「41・4労使確認書」当時の市川支部書記長は申立人の加賀谷武喜であった。

  D疾風怒濤の人減らし攻撃
 人員削減と三交代制を柱とする「合理化」計画は65年3月29日の明乳労組中央委員会の採決で18対6の賛成多数で可決された。市川支部は戸田橋支部、大阪支部(3支部とも三交代制の対象職場)とともに強硬に反対したが少数で主張は通らなかった。

 会社はこれで組合の合意は取りつけられたとして、5月20日に人員整理(市川工場製造ラインの376人を269人に削減)、7月1日に三交代制を強行実施した。66年の「労使確認書」後の6月13日、「修正第一次目標人員」と称してさらに35人。68年3月16日には「第二次目標人員」を設定して洗壜職場10人、瓶詰職場5人などの第三次人員削減が行われる。まさに疾風怒濤の人減らし攻撃であった。人減らしによって生じた「余剰人員」は、退職勧奨、「青空部隊」配属、強制配転などの仕打ちに晒された。

  E会社施策と対決する諸活動
 これでは労働者が怒らないわけはない。市川支部執行部の中心にいた申立人らは当然支部の全力を投入して会社施策と対決し、職場労働者の利益擁護のためにたたかった。支部機関紙・職場新聞の発行、工場協議会での会社追及、「三交代粉砕のバスハイク」・職場集会・抗議集会・学習会等の開催、食品産業や地域の労働者への訴え、中央委員会等明乳労組各機関での発言など活発に活動した。

  F会社も認める「活発な組合活動」とそれに対する偏見と敵視
 申立人らの「活発な組合活動」は本件審問における会社側黒川孝雄証人によっても浮き彫りにされた。会社は黒川証言を最終陳述書において次のように要約している。

 「昭和38年頃から、『余分に働くな』『職制は敵だ』とする特異な勤労観を持つ一部の労組員で支部執行部が構成されるようになった」「この支部執行部の活動の特徴は、その特異な勤労観を支部員に押し付けるとともに、明治乳業労働組合綱領に基づいた労組中央本部から逸脱した活動を行ったことである。支部執行部は会社諸施策すべてに反対し、会社の指揮命令系統を麻痺させようとし、政治活動に偏向した。支部執行部は工場の安全衛生活動をボイコットするなど数々の不当な労組活動を行った」。

 この黒川証言は言葉を変えて申立人らの活発な組合活動とそれへの会社の敵意をあからさまに表現している。会社は申立人らが指導していた支部執行部の「勤労観」つまり思想信条を問題にし、敵視したのである。会社は「不当な労組活動」だというが、普通「不当な組合活動」としての指標とされる、暴力行為とか業務妨害行為とかは何一つ具体的に指摘できない。要するに会社は人減らし「合理化」にあくまで反対する申立人らの組合活動が憎かっただけなのである。

 2、市川支部執行部に選出されなくなった後の組合活動
  @組合役員・代議員への立候補
 申立人らは68年度(昭和43年)以降支部執行部が「明朋会」メンバーに独占された後も組合本支部役員、職場代議員に立候補し、またはその推薦人として名を連ねた。立候補等の情況については甲378号証拠の一覧表で示されている。なお、職場代議員は制度上は立候補制ではなく職場の互選による選出であるが、実態としては申立人らと「明朋会」がそれぞれに候補者を絞って投票で決していたのである。

A役員立候補に際しての政策宣伝活動

 申立人らは69年(昭和44年)の立候補に際し、「話し合い 励まし合い 要求を実現しよう」という標題の「支部選討議資料」を、70年には「七大基本政策」を作成して配布した。他に「ゆとりを持って働ける作業人員と職場をこうして作ろう」「上級職制の横暴な態度、もっと人間らしく、権利も大切にしよう」「職制機構を通じた組合介入にストップ、アカ攻撃、差別をはね返し組合を真に強化する道を」などのパンフレットも作成、配布した。また立候補者、推薦者連名の職場新聞「いぶき」も発行した。

B支部大会方針への修正案提出

 申立人らは69年、74年、84年の支部大会に、労使協調の運動方針に反対する立場から「職場の権利確立」「労働条件の抜本改善」「平和を守る戦い」などを柱とした修正案を提出した。これらは申立人のうち数人が連名しており、申立人ら集団の組合活動であることが明白である。

C春闘、人減らし「合理化」、労災事故などのたたかい

 春闘=69、70、71年春闘にあたって職場新聞「いぶき」を発行。72年春闘では冷蔵庫職場で職場新聞「すずらん」。職場ビラには、73年の「73年春闘、生活からの要求で」、81年の「早出残業までしてこの賃金、春闘でなんとかしなければ!」、89年の「春闘要求構想、平均6.5%程度では生活向上になりません。春闘や賃上げについてもう一度考えよう」などがある。また本部オルグの職場集会で執行部批判の立場から積極的に発言した。

 人減らし「合理化」=70年に11号にわたる「合理化、時短シリーズ」を発行。71年には職場新聞「すずらん」で人減らし反対を表明。その後も、東京工場閉鎖反対、サービス残業是正などを強調した。


(中途半端になるので本日はここで切り上げる。昨日、今日と近くで「さくら祭り」。あいにくの雨だ。焼きそばを売る屋台のテキヤさんもしょぼくれていた。子どもたちが小さい頃、公園にシートを敷いて花見をしたな。話は変わるが、父の33回忌、母の23回忌の塔婆を数日前にお墓に立ててきた。子どもたちは昔花見をしたおれの年齢になり、おれは親父の死んだ年を越えた。やけにしんみりさせる冷たい雨が降り続いている)

 労災事故=申立人らは70年の「岩崎労災認定闘争」をはじめ腰痛をなくし、職業病と認めさせる活動に取り組んだ。72年の塩素ガス漏れ事故、プラップターのスリップ事故、76年の鈴木文雄のデバレタイザー死亡事故、77年の過酸化水素被害、87年の京都工場見習い労働者転落死亡事故、89年の大阪工場下請け作業員デバレタイザー巻き込まれ死亡事故などについて職場新聞や選挙ビラ、「明乳差別をなくす会」名義ビラ等で取り上げたり、会社への抗議行動を行ったりした。

D苦情処理委員会への提起
 申立人らは査定が公平に行われていないとして、71年から74にかけて会社苦情処理委員会に苦情を申し入れていたが一切救済されなかった。
E本件申立と不当査定問い質し運動
 毎年累積する賃金昇格差別からの救済を求めて85年に都労委に本件申立を行った。また不当査定に対する上司への問い質しを行ったがまともな返答はない。

 3、申立人らの集団性
 会社市川工場(組合市川支部)内に、62年頃から68年頃まで明乳労組市川支部執行部を中心ニ構成していた申立人らがいたことは事実である。申立人全員が支部執行部のメンバーでなかったことも事実だが、メンバー以外も執行部の方針を支持して同じ組合路線を歩んだ人たちである。

 これら62年頃から68年頃の支部執行部の中心的メンバーとそれに同調する者たちで後に「階級的民主的活動家集団」を形成した。確かにこの「集団」はそのような名称で公然化したわけではなく内部的な結束ではあったが、前項@からDまでのような諸活動によって「集団」として会社も認識していたであろうことは容易に推認しうるところである。

 この点で本委員会が昨年(95年)5月19日に交付した「国民金融公庫」事件命令において、非公然の「全国活動者会議」であっても、そこで討議され決定した方針の下に職業病をなくすたたかいや配転反対闘争を行っていたことは公庫も認識していた「正当な組合活動である」と認定していることを付け加えておきたい。

V、被申立人会社の不当労働行為意思
 1、「明朋会」の誕生と会社の意図
 会社の係長、主任、班長が中心になって65年(昭和40年)10月に「明朋会」がつくられ、翌66年3月19日に第1回総会が開かれ、同年6月にビラ「明朋」を作成配布して公然活動を始めたことは、会社も認める歴史的事実である。この時の市川支部書記長は申立人加賀谷であり、執行委員に申立人の伊藤、小関、松下、菊池、桜井がいて、会社のいう「特異な勤労観を支部員に押し付けるとともに」「会社諸施策すべてに反対し、会社の指揮命令系統を麻痺させようとし、政治活動に偏向し」「工場の安全衛生活動をボイコットするなど数々の不当な労組活動を行った」(会社「最終陳述書」)とされる時期である。

 「明朋会」は会社の「合理化」推進を謳うと同時に、支部執行部と職場の申立人らに対して猛烈なアカ攻撃と口汚い罵声を浴びせた。ビラ「明朋」によれば「(忍者)赤ガエル」「赤い火の粉」「赤ムシ」「赤水虫」「赤大根」「赤い細菌」「赤いスイカ」「赤いだし汁」「赤ムシコケムシ」「赤いタニシ」「赤い金魚のフン」「日共・民青」・・・と言いたい放題である。

 また「生産阻害を唯一の生き甲斐としていたインチキ革命家共」というような言い回しで、申立人らを「生産阻害者」「企業破壊者」と決めつけた表現も目立つ。これは「労働意欲欠如者の排除」を謳った「41・4労使確認書」の精神とも重なり合う。

 確かに「明朋会」のメンバーは職制とはいえ組合員であるから、会社の預かり知らぬ「労労対立」といえなくはない。しかし、大量に撒かれた「明朋会」の常識外れのビラは当然会社の手に入っていたはずである。会社は、「明朋会」について「市川支部の常軌を逸した行動に対する批判の中から生まれた集団」と褒めたたえているが、当時の市川支部執行部の発行するニュース類と「明朋会」ビラを比較する時どちらが「常軌を逸脱」しているか一目瞭全ではないか。これだけの「常軌を逸した」ビラが連日撒かれていたにもかかわらず会社が「明朋会」ビラに注意を与えた事実は存在しない。むしろこれを煽り育成して会社施策の遂行にとって都合の悪い支部執行部の転覆を願っていたと見るのが妥当な見方であろう。

 2、「笠原ファイル」で証明された事実
 会社が職制連絡会を通じて組合選挙などに直接介入していた事実が暴露されたのが甲65号証の「笠原ファイル」である。 
 会社はこの「笠原ファイル」について、@ファイルは当時製造課主任だった笠原利治のものであったこと、A職制連絡会の記録であること、を認めた上でその証拠価値を免れるために次のような言い訳をしている。「申立人らの想像力をかき立てる穏当を欠く措辞が散見されるほか、メモ類が雑然と編纂され、しかも時系列に整理されていないので、内容が誤解され易いものになっている」(会社「最終陳述書」)。

 申立人らが支部執行部選挙で落選し、「明朋会」会員が執行部を独占したのは68年度(昭和43年)のこと。「笠原ファイル」その直後の70年から72年にかけての職制連絡会(係長・主任で構成)の記録である。この時期、一応「明朋会」による支部執行部の独占は果たしたが、まだ申立人らの勢力は根強く、いつ逆転されるかも分からない。そんな中で緻密な対策が練られ、そりに会社も深く関与していた逃れられぬ証拠である。

 職制連絡会は「明朋会」から班長以下を切り捨てだ上部職制による構成である。会議場所は少なくとも1度は会社応接室が使われていたことが推認され、会社保管の資料を使用し、会社業務のみに関する議題も取り扱っていた。職制連絡会では支部役員選挙と代議員選出に関してどうしたら申立人らの進出を妨げられるかが話し合われた。申立人らを赤組、職制派を白組と名付け、赤組のチェック、排除、孤立化についての手口が細かく検討され、また職場組合員を「◎○△×」に分類して赤組の票崩し、白組の拡大を図った。なお申立人は全員「×」印がついている。このような事実が「笠原ファイル」によって明らかになった。

 会社はこの「笠原ファイル」について大島証人の証言の中で、職制連絡会の存在は認めたものの、@目的は職場の悪習温存をなくすため、A「赤組排除」などは笠原個人の考え、B「明朋会」とは無縁、C組合選挙に介入したのでなく感想を述べ合っただけ、とか言い繕っている。しかし、それならこの証拠について一番詳しいはずの笠原本人を証人に申請すればいいのだがそれはしない。この一事を見ても「笠原ファイル」の真実性、会社関与の真相は明白であるといわざるをえない。
 
3、支配介入と不利益攻撃
 会社は@明朋会、A職制連絡会以外にも多様な手口で明乳労組市川支部の遠泳に介入し、申立人らえの不利益攻撃を行った。以下にその主な事例を順不同で列挙する。なお賃金昇格差別及び新職分制度(移行格付け試験)については別項目で述べる。

 @観察記録
 申立人らに狙いを定めて陰湿に「観察」しそれを悪意を込めて記録した。申立人は観察記録が人事考課の材料になっていることを知らなかった。本審問廷に申立人の勤務態度不良を示す証拠として大量に提出されたが、それらは、事実のデッチ上げ、誰でも起こすミスを針小棒大に取り上げる、著しい曲解に満ちたものなどであった。

 A就業規則細則
 会社は61年10月1日就業規則細則を導入し、それまでの労使慣行の破棄、出退勤・休憩時間等の厳格管理を一方的に強行実施した。これは支部が労使交渉を通じて獲得した諸権利をないがしろにするもので、職場組合員の支部への信頼と支持を損なう効果を持った。

 B時間管理の徹底
 着替え時間の取り上げ、昼休みの15分前機械停止の慣行破棄などを強行していたずらに職場を紛糾させた。申立人らが従来の慣行を守ろうとすると会社指示違反として「指導書むをとられた。
 C施設管理権のゴリ押し
 職場会に控室を使わせない、会社内で3人集まれば「無届集会」として解散させる、工場隅での歌声活動の禁止、など65年頃から締め付けが強まる

 D退職強要、分断・隔離
 65年からの「合理化」に際し「余剰人員むが生じたとして「青空部隊」と呼ばれる仕事差別が行われ、申立人伊藤、沢口、大井、大森、米元、荒木らが配置された。仕事は「ペンキはがし、ペンキ塗り、ゴミ拾い、草むしり、破壜の検査、アイスティックバーの整理・結束、粉末砂糖の袋詰め、人員不足職場への応援、通し作業員としての応援、殺菌機のガスケットの張り替え」(伊藤陳述書)など。申立人らは一般従業員から分離され、毎日寒さに震えながら屋外の高い建物のペンキはがし等をやらされたのである。

 E「誓約書」提出強要
 会社は68年春、勤続5年以上の従業員とその身元保証人に「社内諸規則の順守、違背して会社に損害を与えた場合の弁償」を内容とした「誓約書」の提出を迫った。これに対して申立人らは「誓約書は会社に忠誠と屈服を強いるものであり、今後の合理化施策に無条件で従うことを約束させようというに等しい」として反対。結局申立人らを含む80人が提出を拒否した。会社は拒否した全員から「指導書」をとった。「指導書」をとられると人事考課がD以下になる可能性が濃い。

 W、外形的格差の存在と移行格付け試験
  1、外形的格差
 @申立救済内容
 申立人らは会社従業員のうち申立人らと同性、同学歴、同勤続の中位の職分・号級および賃金(月例賃金・一時金)を求めている。バックペイは申立日から5年さかのぼった80年度(昭和55年)からの累積分の請求である。なおバックペイには6分の利子。他に1人300万円の慰謝料も請求に含まれる。

 A外形的格差
 会社の職分制度は下級から技能職、基幹職2級、基幹職1級、基幹監督職と昇格する仕組みになっている。この制度の基本は69年4月に導入された新職分制度によっている。
 申立人らの85年度現在の職分・号級は次の通りである(申立人古小高は休職中)。

 基幹監督職=沢口
 基幹職1級=伊藤、大森、大井、桜井(隆)、松下、山崎、吉村、三田地、岩本、高橋、額賀
 基幹職2級=菊池、佐藤、小関、沢山、平木、福井、村山、米元、加藤、斉藤
 技能職=加賀谷、荒木、久保、二瓶、橋本、佐々木、中島

 このうち63年10月以降入社の加藤、斉藤、佐々木、中島、岩本、高橋、額賀以外はすべて中位者が基幹監督職に達している。従ってこれら7人とすでに基幹監督職の沢口を除く申立人の基幹監督職への昇級(技能職在級で中位が基幹職2級である佐々木、中島は基幹職2級への昇格)を求めている。

  2、新職分制度と移行格付試験
 前項で見たように外形的格差の存在は明らかであり、それは申立人らが基幹監督職になっていないことに主たる原因がある。ちなみに94年現在では、85年当時技能職だった申立人全員が基幹職2級までは昇格したが、相変わらず基幹監督職はゼロである(唯一の基幹監督職だった沢口は91年に定年退職している)。

 会社は「新職分制度によって昇格については『コース別管理』を採用し、コース別に最終職分を定めている。申立人らは沢口を除いて『事業所採用者コース』であり、このコースの最終職分は基幹職1級である。それにもかかわらずその上位の基幹監督職を求めるのは制度上不可能を強いるものだ」として申立の却下を主張している。以下この問題を解明したい、
 
 @新職分制度とコース別管理
 会社は、69年4月1日から旧職分制度に替わって新職分制度を実施した。これにより職分区分は旧制度の5職分から12職分に増えた。「管理企画職1級」(組合員範囲)以下の9職分は次の通り。
 「技能職」―「基幹職2級」―「基幹職1級」―「基幹監督職」―「管理補佐3級」―「管理補佐2級」―「管理補佐1級」―「管理企画職2級」―「管理企画職1級」
 
 さらに会社はこれらの職分昇格をコース別に管理するとして次の4コースをつくった。
   コース                      最終職分
  事業所採用者コース             基幹職1級
  第1種詮衡試験合格者コース        基幹監督職
  第2種詮衡試験合格・本社採用者コース  管理補佐職1級
  第3種詮衡試験合格者コース        管理企画職1級

 沢口を除く申立人らは事業所採用者コースに編入された。なお沢口は旧職分制度で「指導職」だったため移行措置として基幹監督職に格付けされた。    

 A移行格付試験の実施
 新職分制度の導入にあたって会社は旧制度の「一般職」のうち高卒2.5年以上、中卒5.5年以上勤続者を対象に移行格付試験を実施した。これは制度上の第1種詮衡試験に相当するもので合格すれば第1種詮衡試験合格者コースに組み入れられた。

 移行格付試験の受験状況と合格者は次の通り。
       受験資格者   受験者  受験率    合格者   合格率
 全  社  3,301  2,629  79.6%   1,237   47.1%
 市川工場  267   138    51.7%    129   93.5%
 なお試験結果は公表されず、何点とれば合格するのかの基準も示されなかった。

 B移行格付試験を受験できなかった理由
 本件審問における会社側沢井証人によれば、移行格付試験への職場組合員の理解を得るために当時の市川支部は、労組中央執行部の特別オルグ、受験しないことによる不利益の教宣、受験資格のある全員へ受験を奨励、などの努力をしたという。それなのに市川工場の受験率は全社に比較して極端に低く、ちなみに合格率は異常に高い。

 市川工場に不受験者が多かったのは、67年まで支部執行部を担っていた申立人らの新職分制度導入反対の方針が職場に浸透していたためと見るのが妥当であろう。申立人らは「仲間同士がいがみ合う新職分制度反対」「家に帰ってまで試験勉強しなければならぬ移行格付試験」などと新職分制度と移行格付試験に疑問を呈した。

 結局申立人らが中心になって約半数の組合員が試験を受けないという決断をしたのだが、これは次のような事情を考慮するときその決断の根拠には十分な合理性があったというべきであろう。

 (「受験できない事情」は次回に。――大腸内視鏡検査はポリープ1個摘出のみで無事終わる)

 D制度と運用
 どんな制度もそれを運用するのは人間である。会社は新職分制度は「従業員の保有する職務遂行能力に応じ、従業員を各職分に格付けし、能力に応じた配置、昇格、昇給を行い公正な人事管理の実現に資する」ものという。しかし、「職務遂行能力に応じ各職分に格付け」するのも、「配置、昇格、昇給を行う」のも人間であり、具体的には会社の社長、工場長らと管理職なのである。

 明乳市川工場の場合管理職は「職制連絡会」を開催して組合対策を練ったり、「明朋会」のメンバーとして申立人らを口汚く罵倒したりする。社長、工場長らも見ぬふりするか時によっては奨励する人たちなのである。「公正な人事管理」は期待するのが無理というものである。

 制度についても労働者にとって過酷なものであることが指摘されよう。「コース別管理」というのは各コース毎の処遇を厳しく管理するという制度である。この場合のコースは陸上競技などの平面コースとは異なり、立体的構造になっている。上級のコースに乗るためには、普通以上の人事考課、各種詮衡試験に合格、というハードルをクリアすることが条件である。人事考課も詮衡試験も運用するのは経営者・管理職であって、一度睨まれた労働者が思い通りのコースを歩める可能性は少ない。これが明治乳業株式会社が採用した新職分制度の本質であり特徴なのである。

 3、「受験拒否」のみを理由とした昇格差別は許されない
 会社は旧職分制時代の63年(昭和38年)、職場のリードマンたる従業員を「指導職」として格付けするため任用試験を実施した。新設最初の任用試験で申立人沢口は受験を希望して合格している。なお会社は沢口の任用試験の受験と69年の移行格付試験拒否は申立人らの主張として矛盾するではないかと指摘しているが、時期も、制度の性格も、労使関係の環境も異なるものを一緒くたにした議論で論外である。

 また会社は、申立人の中には基幹職1級(事業所採用者コースの最終到達職分)に相当早い時期に到達しているもののいること(「最終陳述書」15頁)、移行格付試験前の67、68年度の人事考課が標準の申立人が多数おり、これらは受験さえしていれば合格した可能性が高いこと(「最終陳述書」59頁)を自ら認めている。

 D制度と運用
  どんな制度もそれを運用するのは人間である。会社は新職分制度は「従業員の保有する職務遂行能力に応じ、従業員を各職分に格付けし、能力に応じた配置、昇格、昇給を行い公正な人事管理の実現に資する」ものという。しかし、「職務遂行能力に応じ各職分に格付け」するのも、「配置、昇格、昇給を行う」のも人間であり、具体的には会社の社長、工場長らと管理職なのである。

 明乳市川工場の場合管理職は「職制連絡会」を開催して組合対策を練ったり、「明朋会」のメンバーとして申立人らを口汚く罵倒したりする。社長、工場長らも見ぬふりするか時によっては奨励する人たちなのである。「公正な人事管理」は期待するのが無理というものである。

 制度についても労働者にとって過酷なものであることが指摘されよう。「コース別管理」というのは各コース毎の処遇を厳しく管理するという制度である。この場合のコースは陸上競技などの平面コースとは異なり、立体的構造になっている。上級のコースに乗るためには、普通以上の人事考課、各種詮衡試験に合格、というハードルをクリアすることが条件である。人事考課も詮衡試験も運用するのは経営者・管理職であって、一度睨まれた労働者が思い通りのコースを歩める可能性は少ない。これが明治乳業株式会社が採用した新職分制度の本質であり特徴なのである。

 3、「受験拒否」のみを理由とした昇格差別は許されない
  会社は旧職分制時代の63年(昭和38年)、職場のリードマンたる従業員を「指導職」として格付けするため任用試験を実施した。新設最初の任用試験で申立人沢口は受験を希望して合格している。なお会社は沢口の任用試験の受験と69年の移行格付試験拒否は申立人らの主張として矛盾するではないかと指摘しているが、時期も、制度の性格も、労使関係の環境も異なるものを一緒くたにした議論で論外である。

 また会社は、申立人の中には基幹職1級(事業所採用者コースの最終到達職分)に相当早い時期に到達しているもののいること(「最終陳述書」15頁)、移行格付試験前の67、68年度の人事考課が標準の申立人が多数おり、これらは受験さえしていれば合格した可能性が高いこと(「最終陳述書」59頁)を自ら認めている。

 この「沢口の任用試験合格」「合格可能な申立人の存在」という会社も認めている事実を加味してみれば、申立人らは能力が劣るために基幹監督職に昇格できないのではなく、ただ移行格付試験を受けなかったことだけが理由で基幹職に留め置かれていることがはっきりする。ところが、これまで見てきたように新職分制度導入時の労使関係は申立人らが素直に受験できるようなものではなかった。会社は「移行格付試験を受けなかった人でもその後第一種詮衡試験を受けて合格した者もいる」と言っている。しかし、申立人らにとっては第一種詮衡試験も移行格付試験と同じであって受けるような心境になれない。
 
 それは会社が言うような「自由な選択」などではなく、むしろ会社に強制された不受験行為と言える。それゆえ「受験拒否」のみを理由とした昇格差別とその後の見せしめ的放置状態は申立人らの組合活動を嫌悪し、申立人ら活動家集団の弱体化を策した、不当労働行為意思に基づく不利益扱いと断じざるをえないのである。

 X、会社の個別立証批判
  1、本件会社証人の特異性
 前項でみたように本件賃金・昇格差別の本源的理由が申立人らが、新職分制度導入時の移行格付試験およびその後の第一種詮衡試験を受けなかったことにある以上、個別立証の必要はない、というのが申立人側の考え方であった。これに対して会社側は「原則として全員の個別立証」を行うことに固執した。本委員会は前後5回の進行調査の末、時間を絞った証言を行うことにし、93年3月から94年8月にかけて14回の審問期日で、対象申立人9人に対する会社側証人延べ16人、申立人側反論証人2人、計延べ18人の証人尋問を行った。

 本件会社側個別立証は他に余り類を見ない特異な証人の立て方で行われた。他のこの種事件での被申立人側の個別立証(アラ探し立証)は、対象申立人の上司(第一次評定者)を立てるのが普通である。ところが本件では述べ16人の会社側証人のうち上司にあたるのは7人(対象申立人にダブりがあるので実数5人)で、他の9人(実数4人)は市川工場業務課ないし本社人事部の部員である。彼らが生まれた時には申立人らはすでに会社に入社していた。彼らが立証しようとする申立人らの人事考課期間は彼らがまだ物心もつかない幼少時のことである。伝聞証言というにしても限度がある。まったく無意味で不適当な証人と言わざるを得ない。
  <前回(45)としたのは間違いで(46)でした。従って今回は(47)になります>

 2、針小棒大のアラ探しに終始
 次に立証方法であるが、会社側は「観察記録」「日報」「苦情処理委員会議事録」等で申立人の勤務成績を調べたというがその原証拠を提出するのでなく、都合のいい一部分だけを取り上げているに過ぎない。また申立人のミスをことさら針小棒大に問題にするが、同じようなミスは他の従業員もしていたことについては「知らぬ存ぜぬ」で逃げるばかりである。

 例として個別立証のトップバッター申立人久保に対する会社側柳沢(上司)、藤岡(業務課)両証人の証言について検証してみよう。

 上司の柳沢証人は久保について、@仕事を間違え、手順通り行わず、粗雑であった、A食品衛生や安全衛生の基本ルールを守らない、B注意に素直に従わない、などとD評価の根拠を示した。しかし、@久保の所属していた乳化職場は環境の悪い重労働の職場でミスが起こりやすいこと、A久保のミスというが果たして誰のミスか判然としないものがほとんどであること、B食品衛生や安全衛生の基本ルールを守らないというが久保は誰でもやっていることをやっているに過ぎないこと、C証人は久保関係の「観察記録」や「日報」は調べたが他の同僚のは見てもいないこと、D「観察記録」は本人の知らない間に本人の反論の機会もなく作成されていること、E評定者は「明朋会」に所属していて申立人らを「赤虫」「コケムシ」「赤いゴキブリ」などと罵っている仲間であって公正な評価など期待できないこと、などが反対尋問で明らかになった。

 また業務課の藤岡証人は、久保の勤務ぶりが悪いとい点を立証しようとしたが、@証人が直接久保の勤務ぶりを見た上での証言でなく、柳沢証人の陳述書をなぞるだけに終始し、A久保の勤怠に関する一覧表はすでに会社が総論立証で取り上げているものでなんら改めて立証しなければならない必要性は認められない。なお勤怠で問題になっている「ポカ休」は要するに病気などで当日の朝連絡して年次有給休暇をとることであって、これを理由に人事考課を悪くするのは労働者の有休取得の権利を侵害する労基法違反行為である。

 Y、結論
 以上見てきたように、本件賃金・昇格差別事件は、被申立人明治乳業株式会社が申立人らの正当な組合活動を嫌悪し、その弱体化を図って行った不利益取り扱いであり団結権侵害の支配介入でもある。申立からすでに10年、申立人沢口のようにすでに定年を迎えて会社を退職する人も出ている。

 @申立時から5年さかのぼって同期中位への賃金・職分を是正する、A5年間の賃金差額を年6%の利子を付けて支払う、B慰謝料1人300万円を支払う、C今後差別をしないことの誓約、D謝罪文の掲示、との本件申立救済内容に沿った完全救済命令を1日も早く発せられるよう強く要望して私の意見陳述とします。
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 意見書の日付は1996年1月31日、成川美惠子担当事務局員に提出したのもその日だった。労働委員会委員は委員退任後も斡旋員として登録される。委員退任時に和解進行中の不当労働行為事件は、労使当事者の合意を得て斡旋事件に移行する。私は95年11月30日の退任時点で審査事件から移行した6件の斡旋事件を持っていた。その一つが「エールフランス国営航空事件」で、1月31日は18:30から斡旋作業の予定があった。早めに事務局に顔を出して明治乳業事件の意見書を提出したのである。

 明治乳業事件の命令交付は96年9月11日。私が委員を退任した95年11月あたりから9月11日までを私の手帳の記載を中心に関係事項を振り返ってみたい。何か新発見があるかも知れない。

 私が委員退任後担当していた斡旋事件6件のうちのひとつに「小金井市事件」がある。公益委員が明乳と同じ高田さんだった。申立組合は労線統一がらみで分裂した非連合の組合。議会で反共の公明党がからんで複雑な事件だった。高田さんは私と使用者委員の藤森さんの助けを得て96年4月11日、無難に和解を成立させた。

 この時期明乳事件は命令作業が本格化していたはず。私は命令内容の感触を探ろうとして極力話しかけたのだが、高田さんの口からは明乳のメも漏れてこなかった。もう命令の方向性が出てあとは事務局に丸投げしていたのだろう。小金井市事件が和解で終結したので、その後高田さんとの接触はなくなった。

労委制度50周年

 敗戦の翌年1946年に発足した労働委員会制度は96年3月で50周年を迎えた。これを機に都労委でも記念行事が組まれ、その一つとして96年11月29日付で「東京都地方労働委員会創設50年記念誌」が刊行された。厚表紙箱入りで630ページの豪華本である。私も1ページを与えられ随筆「古山会長と私」を書いている。毒にも薬にもならない内容だが、それでも一部古山氏を批判した部分を削除された。

 この記念誌のメインの一つが「昭和から平成への10年の回顧とこれからの課題」と題する記念座談会(実施日は95年11月30日)で、30ページに及ぶ分量である。出席者は司会の高田章公益委員と公労使3人ずつの計10人。労側は和田正、河井正治、天井修の各委員で、和田、天井が旧同盟、河井が旧新産別の出身。

 この労側出席者の人選は滅茶苦茶だ。3人とも事件担当は数えるばかりで、月2回の総会も欠席がち。とてもじゃないが「10年の回顧」や「これからの課題」など語れるわけがない。すべて連合選出の成嶋久雄労側幹事の采配である。在籍18年、事件担当最多の戸塚は何としても外したかったのだ。

 ここで都労委会長人事に関わる内部の動きについて触れておきたい。座談会実施時点の都労委会長は沖野威委員(桜美林大学教授)。沖野氏は古山前会長の肝いりで93年11月、公益委員になる。古山氏は94年5月10日の総会を「風邪のため」欠席。その後も欠席の続く古山氏の会長職はそのままで、瀬元美知男会長代理(成蹊大学名誉教授)が総会はじめ都労委運営を取り仕切るようになった。これは古山さんの後は瀬元会長かなと思っていたら7月に沖野氏も会長代理になった。古山氏の指図だったらしい。

 古山会長は病状悪化のため95年1月24日、会長職を辞任した。その半月前1月10日に開かれた都労委総会で、瀬元会長代理は突然辞意を表明した。会長代理だけでなく22年在籍した都労委公益委員も辞めてしまった。瀬元氏辞任表明の次の総会(1月24日)で沖野会長が就任する。

 なるほど瀬元さんは会長争いに敗れたのだなと納得した。瀬元さんもいろいろ問題があるが、ベテランだし、不当労働行為とはどういうものかについての理解はあった。沖野新会長はその点ド素人である。私はこの時期例の「平準化」問題で瀬元さんとも沖野さんとも難しい話し合いをしたが、沖野さんは暖簾に腕押しで能天気だった。瀬元さんとはその年の10月30日に江古田斎場で行われた古山前会長のお通夜で会ったが、都労委については金輪際触れたくない様子だった。2006年12月29日没。享年82歳。

 都労委50年記念座談会に戻る。高田会長代理の司会で始まった座談会は、まず出席者全員の「委員になったいきさつ」を聞く。労働者委員3人はそれぞれ組合事情で委員に。団結権擁護などの労働委員会の役割とは無関係。使用者委員の兵頭さんだけが会社労担の経験から委員になった意義を述べている。

 次に高田さんはこの10年の都労委の動向として三つ挙げる。一つは賃上げなどの斡旋事件の減少、二つは国鉄民営化に関わるJR事件の大量申立。「さらに3番目といたしまして『潮流間差別』といわれる組合少数派からの不当労働行為救済申立が顕在化してきたことが挙げられるかと思います」。

 高田さんの頭の中には『潮流間差別』事件、つまり明治乳業事件が「この10年の動向」として大きな位置を占めており、この座談会でも議論してもらいたい気持ちがあったと思われる。ところが連合出身の和田、河井、天井の労側3人では議論の出様がない。わずかに兵頭委員が次のように触れているだけだ。

 「潮流間対立の場合の少数の組合、または小数の団体が申し立てた事件というのは、その労働委員会にかかっているということに意義がある。自分たちの存在価値は、その事件が労働委員会にかかっている間世間からも注目されるし、多数組合なり多数勢力に対する対抗的な立場にありうるということで、労働委員会のかけるということが自分たちの労働運動なんだと、こういうことを言いたかったわけです」

 この兵頭発言は私にも真理の一面を衝いているように思える。潮流間差別事件を申し立ててたたかうことによって職場や組合の民主的変革をはかるというのは当然だ。しかしだからといってその労働委員会での審査の結果がどうでもいいということにはならない。会社の不当労働行為を断罪し、申立人らの労働運動を正当だと認めさせなければならない。そのためにはどうしても救済命令が必要なのだ。

 そこのところが高田さんに伝わったかどうか。明乳争議団は労働委員会に申し立てて10年たたかった。そのこと自体に意義があるとしたら結論にはこだわらないのではないか。もしそんな風に考えたとしたら大きな間違いだ。その間違いを指摘する人が誰もいないとしたら・・・。いずれにしてもこれは結果が出た後の議論で、座談会が行われた95年11月30日時点では私としては知る由もない事柄だった。

 この「50年記念誌」には後でも触れるが、「潮流間差別」事件について「石川島播磨」や「国民金融公庫」を引き合いに出しながら真っ当な評価、分析を加えている。(それにしても何故明乳だけが除者にされたのか)

明乳全国事件

 ここで明乳全国事件の申立について触れたい。1994年3月22日、都労委で雪印乳業の賃金差別争議の和解が成立した。担当公益委員は明乳と同じ高田さんで、労使委員は私と兵頭さん。90年6月から約4年を要したが、かなり高水準の解決内容だった。その頃明乳は審問の最終段階だった。

 雪乳和解成立の直後だったと思うが、明乳争議団の加賀谷団長と飲んだ。その座で雪乳の和解が話題になった。雪乳の申立人は23人だったが、和解には支援者の4人を入れたい。会社は申立人以外は対象にしないというので、4人の追加申立を行った。そんな話をした。

 明乳もいずれ和解交渉になるだろうというのが私たちの共通認識だった。今行われている証人調べは年内には終わる。その段階で都労委から和解勧告があるはずだし、それを会社が拒否しても命令が出たら中労委か裁判所でいずれ和解ということになる。その際、労使紛争の火種を残したくない。それは会社も同じだろう。だったら今の時点で和解対象の範囲を明確にしておいた方がいいのではないか。

 全国に仲間がどのくらいいるのかと聞くと市川工場の申立人と同じくらいだという。その人たちは声をかければ申立に応じるはずだ。申立は一括して都労委がいいだろう。――私と加賀谷団長の話はすぐまとまったが、支援共闘会議や弁護団の中には強い疑問の声もあった。結審間際にそんなことをして市川工場事件の進行に支障がないのか、市川工場事件の弁護団で全国をカバーできるのか、などなどである。

 それらの疑問に対して、この申立は和解対象者を明確にすることが目的で、市川工場事件の追加申立でなく新規申立とする、などの合意ができて申立人32人の、かなり速成の申立書がつくられた。それを94年7月6日、都労委窓口に提出し、「平成6年不55号」事件として受理された。

 平成7年度「都労委年表」によれば、申立救済内容は「@同学歴同勤続年数者と同等の職分、号級への格付けA是正後の差額の支払いB損害賠償、慰謝料の支払いC陳謝文の交付、掲示」となっている。担当委員は(公)沖野、(労)井川、(使)深見、(事務局)山本、松本と市川事件とは独立した新規事件扱いになっている。この6年不55号事件が20年後の2014年7月9日、市川事件と同じく申立人全面敗訴の不当命令を出されることになるとは私はもちろん、死んだ加賀谷氏も想像もしなかったに違いない。、

 私は95年10月31日、9期18年務めた都労委労働者委員を退任した。後任には元報知争議団・東京争議団長の井川昌之東京地評常任幹事がなった。新聞労連東京地連の専従委員長、書記長としてコンビを組んだ仲だ。交代に際して心配だった私の担当事件はすべて井川新委員に引きつがせることができた。

雪印一般労組結成

 私の退任直前の10月22日(日)、川越地区労働組合協議会の会議室で雪印一般労組の結成大会が催された。94年3月に賃金差別争議の和解が成立して1年半。かねて準備していた労組結成だったが、27人の争議団のうち労組結成に参加したのは田畑団長ら研究所職場の4人だけだった。

 争議団が労働組合を結成した先輩に銀行産業労働組合(銀産労・後の金融ユニオン)がある。静岡銀行や東海銀行の賃金差別争議団が91年2月に旗揚げした。大企業の労使協調組合にユニオンショップで加入させられ、職場でたたかったところ、身分を守ってくれるどころか労使一体になって攻撃される。それでも組合民主化・多数派結集を目指してがんばらなければならないのか。この時期そんな議論があった。

 憲法28条は労働組合結成と活動の自由を謳っている。それなら労働組合選択の自由もあるはずだ。そんな気持ちで田畑さんたちは雪印一般労働組合を立ち上げた。結成大会には銀産労の甲賀書記長、差別連の土井、篠崎さんら、明乳から加賀谷団長、豊島区労協、新宿区労連、それに私も応援に駆け付けた。

 この銀産労や雪印一般労組の結成は、労働委員会内に一定の波紋を投げかけた。労委は組合の団結権を守るのが目的である。それなのに労委で勝利した争議団が企業内多数派の労働組合を脱退して新しい組合をつくるとしたら、それは労委が組合分裂に手を貸したことになるのではないか。新たな労使紛争の火種になる可能性もある。少なくとも労労対決は激化することになる。私にはそんな空気が感じられた。

 労働者委員は退任したが、日常的な忙しさはちっとも減らなかった。当時全労連が乗り出して、中労委労働者委員の選任裁判をやっていた。その対策会議への出席や資料集めにかなり時間を取られた。退任時に和解をしていた事件は斡旋事件に移行して退任後も事実上の和解作業を行った。そんなことで頻繁に都労委事務局に顔を出していたが、96年3月18日、審査室職員のNさんに話しかけられた。Nさんは早稲田大学法学部卒で75年都庁に入り、81年から都労委事務局に勤務している。

「試験は公平昇格手続き」


 3月18日(月)夕方から私は、都労委事務局の非連合派職員5人と新宿南口の居酒屋で飲み会をすることになっていた。そのため事務局に顔を出した私を見つけてNさんが「戸塚委員ちょっと」と声をかけてきた。委員を辞めて半年になるのだが、事務局に顔を出すと相変わらず「委員」と呼ばれることが多い。Nさんとは事務局のひと隅での立ち話だったと思う。その時の話が手帳に書き留めてある。

 「3/18(N→戸)試験制度は公平な昇格手続きとして民間大手では定着している。JRのようにバッチをしてたら試験を受けさせないといった場合は別として、自らの判断として受けなかった場合はその結果に甘んじなければならぬ。都の主任試験もそうだ。明乳(成川起草)の暗示か――」。

 当時Nさんと成川さんが仕事のコンビ以上に、何か共通の研究をしているらしいことを私は感じていた(結果論だが2年後の98年3月に2人の共著「労委制度ノート」が出版されている)。だから「明乳命令の暗示か」と直感してメモしたのだろう。Nさんからそう言われて私はどんな反応をしたのか。多分「明乳の移行格付試験も不当な制度だった」と反論したのだと思うがはっきりしない。

 このNさんの話は当時頻繁に開かれていた明乳弁護団会議で私からきちんと伝えたのかどうか。それもあいまいである。明乳命令の暗示だとの受け止めがあったのだからもう少し深刻に考えなければならなかったはずだ。今ではそう思うが、当時の私には「行け行けどんどん」の気持ちが強くて命令に後ろ向きの見方はできなかった。私がそうだから弁護団に深刻さが伝わらなかったことは確かだ。

 さらに私の手帳の5月第2週の余白に、次のようなメモが残っている。「労働委員会が行政機関なのに権力から独立した存在でこられたのは、命令を担当審査委員と事務局職員にすべて任せていたからだ。タテの系列の職制機構は機能していなかった。ところが、局長、次長、課長などが命令作業に口を出し、関与するようになれば、権力からの独立の伝統は必定失われていくのではないか」。

 このメモも何か心当たりがあったから書いたのだと思う。総評が解体され連合が誕生した頃から、労働委員会の中にそれまでの不当労働行為救済の職人芸のようなものが官僚的な統制によって損なわれていく、そんな危機感が私に芽生えていたのだと思う。もしかすると明乳命令へのタテの干渉が何か感じられたのか。

朝日火災・日立中研命令

 96年4月5日、石川島播磨、国民金融公庫、大日本印刷とともに「都労委潮流間4事件」としてたたかってきた朝日火災海上事件の命令が出た。朝日火災の申立救済内容は@支配介入言動、A配転、B賃金・賞与・昇格差別の三項目。昭和58年不103号から平成3年72号までの6件併合事件だった。

 命令は種別としては一部救済に入るが、実質は全部救済の争議団完全勝訴だった。@に関しては「(会社は組合の)定期大会にむけて行う各分会からの出席代議員の選出等の組合活動に関し、支配介入してはならない」と断定し、社内に謝罪文を掲示するように求めた。Aの配転の不当性も認めた。

 Bのうち賃金・賞与の是正、差額請求については、58年から平成3年分まで「査定の中間評価であるCとして再査定し、既支給分との差額を支払うこと」と命じた。なお58年不103号の申立は56年にさかのぼった差額を請求していたが、58年以前は除斥期間を理由に却下となっている。

 さらに画期的だったのは昇格差別の是正命令で、「各人の職能等級格付けを、平成3年6月以降、申立人ら各人の同年同期入社者に遅れないよう取り扱うこと」との主文。これは90年5月14日付の石川島播磨賃金昇格事件命令で確立された「一括是正方式」を踏襲したものだった。朝日火災争議団はこの命令を武器に中労委で粘り強い和解交渉を行い、10年後の2006年に全面勝利和解を勝ち取っている。

 朝日火災の命令で当初の潮流間4事件共闘は一定の終結をみた。解雇事件の大日本印刷が完敗、同じく出向・解雇事件の石川島播磨が解雇は救済されたものの出向は棄却。賃金昇格差別事件の方は国民金融公庫も朝日火災海上もほぼ全面勝利の命令だった。潮流間共闘は日立中研、明治乳業にたたかいの軸足を移した。

 日立中研も昭和61年不104号から平成5年不29号までの7件併合で、94年9月26日に結審し、同年12月20日に最終陳述書を提出、私の意見書は95年7月7日付で提出されていた。公益委員会の命令合議が95月10月17日に始まり、11月7日、11月21日、12月5日と続けられここで中断、年が変わって96年2月6日に再開、2月27日に決定した。

 合議にこれだけ費やしたのは最近の事件では珍しいことだった。しかも決定したはずの命令がなかなか交付されない。やっと申立人らが命令書を手にしたのは3カ月後の5月17日だった。

 96年4月5日、石川島播磨、国民金融公庫、大日本印刷とともに「都労委潮流間4事件」としてたたかってきた朝日火災海上事件の命令が出た。朝日火災の申立救済内容は@支配介入言動、A配転、B賃金・賞与・昇格差別の三項目。昭和58年不103号から平成3年72号までの6件併合事件だった。

 命令は種別としては一部救済に入るが、実質は全部救済の争議団完全勝訴だった。@に関しては「(会社は組合の)定期大会にむけて行う各分会からの出席代議員の選出等の組合活動に関し、支配介入してはならない」と断定し、社内に謝罪文を掲示するように求めた。Aの配転の不当性も認めた。

 Bのうち賃金・賞与の是正、差額請求については、58年から平成3年分まで「査定の中間評価であるCとして再査定し、既支給分との差額を支払うこと」と命じた。なお58年不103号の申立は56年にさかのぼった差額を請求していたが、58年以前は除斥期間を理由に却下となっている。

 さらに画期的だったのは昇格差別の是正命令で、「各人の職能等級格付けを、平成3年6月以降、申立人ら各人の同年同期入社者に遅れないよう取り扱うこと」との主文。これは90年5月14日付の石川島播磨賃金昇格事件命令で確立された「一括是正方式」を踏襲したものだった。朝日火災争議団はこの命令を武器に中労委で粘り強い和解交渉を行い、10年後の2006年に全面勝利和解を勝ち取っている。

 朝日火災の命令で当初の潮流間4事件共闘は一定の終結をみた。解雇事件の大日本印刷が完敗、同じく出向・解雇事件の石川島播磨が解雇は救済されたものの出向は棄却。賃金昇格差別事件の方は国民金融公庫も朝日火災海上もほぼ全面勝利の命令だった。潮流間共闘は日立中研、明治乳業にたたかいの軸足を移した。

 日立中研も昭和61年不104号から平成5年不29号までの7件併合で、94年9月26日に結審し、同年12月20日に最終陳述書を提出、私の意見書は95年7月7日付で提出されていた。公益委員会の命令合議が95月10月17日に始まり、11月7日、11月21日、12月5日と続けられここで中断、年が変わって96年2月6日に再開、2月27日に決定した。

 合議にこれだけ費やしたのは最近の事件では珍しいことだった。しかも決定したはずの命令がなかなか交付されない。やっと申立人らが命令書を手にしたのは3カ月後の5月17日だった。

 日立中研事件の申立内容は、申立人12人の@昇格・昇給差別及びA配転、仕事、福利厚生等の差別の2項目である。命令は@については12人のうち7人を救済、Aは疎明不十分を理由に不当労働行為と認めなかった。命令種別としては一部救済だが、悪質な不当労働行為の場合に付く謝罪文掲示が命じられた。

 昇格・昇給差別が認められた7人と認めれれなかった5人はどこがどう違うのか。大きく分けると二つある。一つは「除斥期間」であり、もう一つは「格差の程度」である。まず除斥期間から見てみよう。

 命令は、賃金・格付等の決定は一般的には一回限りの行為だが「差別を繰り返していると認めるに足る具体的徴慂が顕在化している場合は」労組法が認めている「継続する行為」に該ると指摘する。この「具体的徴慂」には申立人らが差別の存在を会社に示して抗議活動をしたことが立証されなければならない。

 日立中研の申立人は共同して賃金等の差別に抗議してきたことは命令も認めている。ところが昭和58年(1983年)に申立人のうち7人は社内苦情処理委員会へ申し立てたが、5人はそれをしなかった。だから5人については会社として差別への抗議の意思を認識する機会がなく継続する行為の条件を欠くという論法だ。この種の都労委差別事件命令の中で苦情処理委員会がこれだけクローズアップされたのは初めてだ。

 ということで、5人は61年の申立から1年以内の格差しか審査対象にならない。当然ながら格差は微々たるものだ。「この程度の査定の差は、特段の功績があったとの疎明がない限り、会社の裁量の範囲内とみるべきである」と認定されてしまった。後で考えればこの判断手法が明乳命令にそのまま採用されたと言える。

 ここで日立中研命令の主文について若干触れておきたい。最初に述べたようにこの命令は一部救済である。一部救済というのは、申立事項のうちある部分を救済し、他の部分を棄却ないし却下するということだ。主文には普通、救済する項目を列記したうえで「その余の申立を棄却する」とか書かれるのだが、日立中研命令の主文には棄却の文字も却下の文字もない。しかも悪質経営者に課す謝罪文掲示が付いているのだ。

 日立中研の命令全体を見たとき、労働委員会としてのいろんな制約があって完全救済にはできなかったが経営者の悪質性を断罪し、申立人らの真情に理解を示す温かい気持ちに溢れているように私には思える。これが労働者の団結権救済を標榜する労働委員会のあり方なのではないか。

都労委のスタンス

 そもそも都労委は潮流間差別事件についてどんなスタンスだったのか。前にも引用した「創設50年記念誌」に「潮流間差別・組合間差別事件の増加」という一項を立てて都労委としての認識をのべている。

 「(40年代以降の組合間差別について概観した後で)また、50年代に入ると、組合内の少数派グループが組合に留まったまま執行部の運動方針を批判する活動を行い、そのために使用者に差別されたとして争われる、いわゆる潮流間差別をめぐる申立も目立つようになった。

 この結果、この10年間では、潮流間差別・組合間差別に関する命令が増加することとなった。

 潮流間差別事件では、少数派グループが一定の集団として特定され、使用者がそれを認識しているか否かという点と、少数派グループが行っている活動が『労働組合の・・・・行為』と認められるか否かとい点が固有の争点となっている。

 潮流間差別・組合間差別事件のうち、昇給・昇格に係る事件では、法的にも実務的にも未解決の難問が多い。この10年間でも、除斥期間との関連で、こうした昇給・昇格の決定行為がいわゆる『継続する行為』に該当するか否かという点や格差是正の方法、程度が引き続き大きな争点となっているほか、申立時に非組合員(昇任により組合の組織対象範囲から外れたもの)となった元組合活動家が問題となった事例もある」

 この「50年誌」の記述はいつ頃書かれたものであろうか。発行は1996年(平成8年)11月29日だが、前記記念座談会の実施期日が95年11月30日であることから推測して、95年の暮れか翌年春頃ではなかったか。96年9月11日の明乳事件命令交付以前であったことは間違いなく、もしかすると命令が公益委員会議の合議にかけられた6月18日あたりだったのかも知れない。

 いずれにしても「50年誌」当該個所の執筆者の念頭には明乳事件命令はない。記述を見ると、潮流間差別事件をいかに救済するか、という積極姿勢で貫かれている。この流れが都労委の潮流間差別事件の本流だった。しかし執筆者の気付かぬところで、逆流の陰謀がひそかに進行していたのである。
 
 日立中研事件命令交付の1カ月後、6月18日の公益委員会議に明乳事件命令原案がかけられた。私は翌日19日午後6時からエールフランスの和解協議があって都労委へ顔を出した。事務局に室橋審査課長がいたので明乳事件の合議状況についていくつか質問した。課長は快く質問に応じた。

 戸「命令全文がかかったのか」室「全文だ」戸「大日本印刷や日立中研のようなことはないか」室「ない。合議は次回も続行する」。私の手帳にはそれだけしか書いてない。ここで言う「大日本印刷」とは95年3月30日に交付された棄却命令のこと。この命令の合議は、最初全文でなく部分的な判断を公益委員会に求め、それを前提にして書いた全文を改めて合議にかけたという経緯がある。

 日立中研命令では4回目と5回目の合議の間に2ヵ月の中断があった。その間に命令原案の書き直しが行われたのではないか、と推測される。私は明乳事件でも大日本や日立中研と同じようなことがあるか、と質問したのだが室橋課長はきっぱり「ない」と答えている。私はこの課長の受け答えを聞いて、明乳命令合議はあまり揉めないようだという感触を得た。その旨7月1日の支援共闘会議で報告した。

 明乳事件命令の第2会合議は7月2日に行われ、ここで命令は決定した。この種事件の命令合議としては異例の速さである。直近の潮流間事件の合議回数に比べて少ないのである。「石川島播磨(出向・解雇)」は3回、「大日本印刷(ビラ配布解雇)は5回、「朝日火災(差別)」は6回、日立中研(差別)」は6回を費やしている。合議回数が少ないのは命令内容に議論の余地がないということになる。それが吉と出るか凶と出るか。私にはまだ「日立中研の命令姿勢は崩れないだろう」との楽観視があった。

 公益委員会での命令決定を受けて支援共闘会議は都労委に対する公正命令要請行動を強めた。7月16日明乳支援共闘、8月1日都労委対策会議、8月3日支援共闘主催総決起集会、8月29日支援共闘会議。そして都労委事務局から「9月11日午前10時に命令を交付します」との連絡が入った。

完全敗訴命令に愕然

 96年9月11日、都庁第1庁舎南塔34階の審問室には、争議団、弁護団、支援の人々がぎっしり埋まって命令書交付を待った。ちなみに5年後の同じ日、例のアメリカ同時多発テロが勃発する。思えば明乳の不当な却下・棄却命令は、従来都労委が積み上げてきた業績を一気に突き崩す凶悪テロのようなものだった。

 午前10時きっかり、事務局の成川さんと柳沢さんが申立人全員分と会社手交分の命令書を抱えて現れた。成川さんらは命令に不服の場合の手続きについて機械的に述べると、後ろも振り返らずにさつさと退室。命令書を開いてぱらぱらとめくっていた加賀谷争議団長が「なんだこんなもの」とテーブルに文書を叩きつけた。会社側からただ1人命令受け取りに来ていた労務の若いのがそそくさと部屋を出て行った。

 主文
1(1)申立人米元裕の昭和55年度乃至58年度における昇給・昇格差別に係る申立てを却下する。
 (2)申立人米元裕を除く申立人31名の昭和55年度乃至59年度における昇給・昇格差別に係る申   立てを却下する。
2 その余の申立を棄却する。

 上記「主文」については解説が必要となろう。
 労働委員会の命令は統計上、救済(全部救済と一部救済がある)、棄却、却下の3種類に分かれている。実際はそれらが複合されて、一部救済・一部棄却(却下)という命令になることが多い。申立人にとっては救済は勝訴であり、棄却・却下は敗訴と言える。

 明治乳業命令は申立の却下・棄却なので完全敗訴である。ここで棄却と却下はどう違うのか検証してみよう。申立内容に立ち入って救済を否定するのが棄却で、内容の判断をしない門前払いが却下であると言われている。労働委員会へはそれなりに理由があって申し立てるのだからさすがに却下される例は少ない。

 都労委の1970年からの命令を見てみると「申立のしっぱなしで呼び出しにも申立人が応じなかった」「申立人が居所不明である」「解雇から一年以上徒過している」「組合が会社から経費援助を受けており、申立資格がない」「組合員に会社の利益代表する者が混在している」「申し立ててから長年放置しており係争する意思がない」「不当労働行為の疎明せず」などの理由の却下命令が出されている。

 これらの却下事例を見るといわゆる「箸にも棒にもかからない」事件ばかりと言える。こんな事件と明治乳業事件が一緒くたにされたのではたまらない。さらに考えれば、一緒くたにしたところにこの命令に対する都労委側の悪意が感じられる。もう20年前のことではあるが、思い出しただけでは憤りが込み上げてくる。

 命令主文の解析に戻ろう。労働委員会の命令は申立人の「請求する救済内容」に沿って書かれる。以前にも引用したが、昭和60年度「都労委年報」は明乳事件(昭和60年不27号)の請求事項を次の5項目にまとめている。@申立人の55〜59年度の職分・号級の是正、A賃金是正額に年6分を付加して支払う、B損害賠償および慰謝料として1人300万円、C今後は差別しないことの誓約、D陳謝文の手交・掲示。(併合された61年不21号では60年度分の差別是正も請求内容)。

 このうち都労委が不当労働行為の成否を判断したのは@のみである。他の4項目は判断に踏み込むまでもなく棄却とされた。それでは@の判断とはどんなものだったのか。米元申立人の55年度〜58年度分、他の申立人の55年度〜59年度分の請求は除斥期間を理由に却下するという。米元さんとその他の違いは、米元さんは59年度に社内苦情処理委員会に申し立てたが、他は申し立てなかったという事実だけである。

 このように却下されてしまうと、残るのは米元さんの59年度分と、米元さんを含む全員の60年度分の差別についての判断しかない。命令では「これらの年度における申立人らと同職分・同級者との比較において有意の格差は認められない」という趣旨で棄却された。低職分に据え置かれている事情を抜きにして、何年何十年も後に入社した後輩と比較されて「格差は無い」などと斬り捨てられたのでは立つ瀬がない。

 明乳命令は「除斥期間」が絶対的な壁になって救済への道を閉ざしている。除斥期間を突破する理論は「継続する行為論」で、都労委はそれを成立させるためには「差別を繰り返していると認めるに足る具体的徴憑が顕在化していること」が必要条件としている。それが「苦情処理委員会」というわけなのだ。

 「本件のような、組合申立でなく個人申立に係る事件で、会社に個人の苦情をを直接取り扱う苦情処理委員会が存在する場合、前記具体的徴憑が顕在化していると認めるためには、特段の事情がない限り、不利益取り扱いを受けたと主張する者は、まずこうした制度を利用して自らの抗議の意思を会社に対して明確に伝えることが必要と考える」。――労働者のたたかい方にはいろいろんな選択肢がある。どれを選ぶかは当該の労働者が決める。都労委にこのように一つの戦術だけを押し付けられるいわれはない。

 日立中研命令では「救済のための便法」として使われた苦情処理委員会への申立・非申立が、明乳命令では全面的却下の根拠として採用されている。それ自体団結権救済機関としての労働委員会制度を逸脱するものであるが、問題はそれだけではない。これだけきっぱりと却下命令が出せたウラには高田公益委員の審査指揮(事務局や末廣使用者委員に後押しされた)があったのだ。

 ここで95年3月2日に行われた調査期日を思い出していただきたい。前年の12月22日、会社側東野和夫証人の反対尋問でこの事件のすべての証人調べが終った。それを受けての調査期日だったが、高田公益委員は突如「本件命令の範囲を60年不27号、61年不20号、61年不21号の3件とする」と宣言した。労働者委員の私も、申立人側代理人、争議団も猛反発したが審査指揮ということで押し切られた。

 明乳事件は上記3件に、62年不17号、63年不22号、平成元年不20号、2年不8号、3年不9号、4年不6号を加えて計9件が併合されていた。それを3件だけにし、他は分離するというのである。3件といっても61年不20号は1人の追加申立事件なので実質2件、審査対象は1〜2年分にしかならない。ちなみに直近の潮流間差別事件では、朝日火災が6件、日立中研が7件併合だった。

 併合する、しない、が命令にどう影響するのか。96年4月5日に交付された朝日火災命令を例に検証してみよう。朝日火災命令の対象事件は1983年(昭和58年)申立から91年(平成3年)までの8年分である。命令は、83年以前は(明乳と同じように)除斥期間徒過を理由に却下したが、83年以後の8年間については「査定の中間評価であるCとして再査定し、既支給分との差額を支払うこと」と命じた。

 明乳事件でももし平成4年不6号まで併合のままだったなら、85年から92年まで7年間の格差の存在が問題になっていたはずだ。格差の顕現を実証するには1〜2年の観察ではどだい無理だ。そんなことは労働委員会の常識のはず。それを無視して強引に分離し、審査対象を1〜2年に限定する。その結果「有意の格差はない」とあっさり否定する。「あっさり否定する」ために分離したとしか思えない。

仕組まれた「事実認定」

 賃金昇格差別事件に個別立証論議はつきものである。労働者側は集団的差別事件だから大量観察で十分だと主張するが、会社側は格差の合理性を分かってもらうには個別の勤務成績、評価の正当性の立証(いわゆるアラ探し立証)が不可欠だという。明乳事件でも個別立証が行われた。会社が個別立証をやるというのは格差の存在を認めるからだ。格差がなければ「格差の合理性」を論じる必要はない。

 明乳の個別立証は、93年3月から94年8月にかけて、会社側証人延べ16人、申立人側反論証人2人、14回の審問期日を費やして行われた。この会社側個別立証は他に類を見ない特異なものであった。

 明乳事件の個別立証については戸塚意見書で指摘したように、@ほとんどが本社人事部、市川工場業務部の若手部員による伝聞証言である、A数少ない上司証人はすべて申立人らを敵視する明朋会に所属している、B相対評価を抜きにして申立人らのミスだけをあげつらっている、C証言の根拠としているのは作成時期も作成者も不明な「観察記録」や「日報」である、など同種差別事件に比べると明らかに欠陥証言である。

 これを使ってでは命令を書けないことぐらいは労働委員会の玄人筋なら誰でも分かる。もし命令の中でこの個別立証に触れるとしたら、会社側の主張する「人事考課の合理性」を否定するしかない。そこで考え出されたのが@除斥期間とA分離命令である。除斥期間を理由に過去の累積格差を否定し、分離命令で1987年から92年までの差別の判断から逃避したのである。

 そのことによって命令は「有意の格差はない」と判断した。格差がなければ「人事考課の合理性=個別立証」に触れる必要はない。命令書をもう一度見てもらえば分かるが、申立人らの人事考課一覧表はあるが個人の勤務成績には1行も触れていない。1年半の貴重な時間を割いたのに完全に無視したのだ。

 会社側でさえ申立人の一部ではあるが「格差の存在」を認め、「格差の合理性」を証明するために個別立証をしたのに都労委はそのことにまったく触れずに労働者敗訴の不当命令を出したのである。ずさんな個別立証という会社側の不利を都労委がカバーしてやったとしか言いようがない。

 命令書の構成も異常である。手元の都労委平成8年「不当労働行為命令集」によれば命令書は別表を含めて65ページ。このうち「判断」部分が20ページ、45ページが「事実認定」である。問題はとんな「事実」を認定しているかということである。命令書の項目に従って認定事実を拾ってみた。

 「昭和44年度の新職分・賃金制度導入をめぐる経過」「旧職分制度から新職分制度への移行」「市川工場における移行格付試験前後の状況」と新職分制度への移行の記述に6ページ、「会社の職分制度・賃金制度」の説明に13ページ、「会社の人事考課制度」の説明に8ページ、計27ページが会社の職分制度・賃金制度に関する説明で費やされている。その中には「新職分制度導入に至るまでの労使協議の経過」が事細かく記述されている。新職分制導入推進の労働組合本部との「労使協議の経過」である。

 命令は、新職分制度の中身、労使協議の経過、移行格付試験の必要性と実施状況、人事考課制度の骨組みなどについて2人の会社側証人(江間俊夫、東野和夫)の証言をそのまま採用して「事実認定」している。2人とも証人採用について申立人側は「必要ない」として反対した経過がある。

 91年暮れから92年春にかけての個別立証の調査の段階で、新堂公益委員が「本件は新職分制度とそれに基づく移行格付試験が不当労働行為意思のもとに実施されたのか否かが争点だ。改めて労使双方から証人を立てて立証してほしい」と言い出し、申立人側は「これまでの立証で尽くされている」と反対したが審査指揮で、争議団側小関守、会社側江間俊夫が証人に立つことになった。

 江間証人は中大法学部を出て入社、すぐ労組専従になった。新職分制度導入時は明乳労組本部の専従書記次長、書記長の役にあった。組合の民主的手続きを経ることなく会社の指示で組合専従になり、組合幹部になった男だ。会社が新職分制を提案し、組合が内部討議で導入を受け入れることを決め、粘り強い労使協議をした旨の証言をした。ベテランの経営法曹山田弁護士の誘導で辻褄の合った証言がなされた。

 新堂公益委員は93年10月31日で退任し、以前明乳事件を担当していた高田委員が後を継いだ。94年6月2日、個別立証の組合側最後の証人桜井隆夫さんの主尋問が終わった労使同席の審問廷で、高田公益委員が「会社から申請のあった東野和夫証人を採用する」と突然宣言した。

 申立人側守川弁護士が立って「反対である。桜井証人で結審のはずだ。東野証人の証言趣旨が明確でない。証人採用を再考してほしい」と粘った。高田公益委員は「判断に必要な証人と考える」として自説を曲げなかった。この発言は私のノートに明記されているので間違いない。

 当時は気付かなかったがこの「判断に必要な証人」という発言は極めて重要な意味を持っていたことになる。96年9月11日に交付された明乳事件命令では東野証言がそのまま採用されており、まさに「判断に必要な証人」だったからである。まだ証言も聞かないうちに、どうして判断に必要と分かるのか。

 命令を書く側の都労委が、命令の論拠が薄いと思われる「新職分制度の合理性と必要性」について分厚く立証させたものとしか思えない。東野証人はこのように証言した。「前任地の帯広工場から市川に転勤して仕事への熱意ということであまりの違いにショックを受けた。満足感、充実感のない従業員の存在だ。従業員に希望を持たせられるような資格制度、賃金制度が必要だった。それが新職分制だ」。

 このように「判断に必要な証人を採用」し「判断に必要な事実認定」をした結果、とんな「判断」になったか。

 「44年度職分制度改正の趣旨は、従業員の増加、従業員構成の変化、同一職分内における能力分化等の要因により、旧職分制度の5職分で管理することが困難にになったためであった。また、職分制度改正の方針は、『能力に応じた配置、昇格、昇給』を行うこと、『公正な人事管理』を実現すること、『職分昇格は・・・人事考課成績および昇格試験により行うこと』、『職分と職位の対応関係を明確』にすること、『職分制度は職務に密着しない』こと等々とされていた」。

 「会社における職分・賃金制度は職能中心の制度であるが、このこと自体、学歴・年功よりも職能・職務に重きをおいた人事諸制度が次第に大勢を占めるようになってきた今日の社会情勢と何ら矛盾するものではなく、新職分制度において職分が細分化・多層化した事実はみられるものの、これも、職能と処遇の対応関係をよりきめ細かく行う趣旨で実施されたのであって、特に被申立人会社に特徴的な制度とはいえない」。

 なんと会社の主張をそのままなぞっただけの判断ではないか。これほどまでに企業の職務職能給を礼讃・美化した労働委員会命令にお目にかかったことはない。しかもこの判断には論理のすり替えがある。命令のいう「今日の」とはいつのことか。命令文脈からすれば命令作成の1996年であって新職分制度導入時の69年てはない。27年の歳月の経過を無視して賃金制度を論じるのはあまりにも乱暴だ。

 69年当時はまだ「学歴・年功」より「職能・職務」に重きを置くような社会情勢にはなっていなかった。明乳の新職分制度は命令時点の96年では「社会情勢」かも知れないが、69年当時としては職能・職務を絶対化した社会的にも例を見ない過酷なものだった。しかも移行格付け試験という「踏み絵」を踏まなければならない。そんなことは労働委員会のこの種事件を振り返ればすぐに分かることだ。

 さらに命令は新職分制度導入に至る労使協議に触れる。「(昭和)41年4月20日の労使確認に始まり、43年8月15日の経営協議会において『新職分制度に関する合同委員会』の答申どおりの内容で承認されるまで、組合と会社は相当の手続きを経たうえで新職分制度の導入を決定していたものと認められる」。

 命令は1966年(昭和41年)4月20日の「労使確認」が、新職分制度へ向けての労使協議のスタートだと位置づけ、その後の粘り強い交渉を経て新制度は会社の強制などでなく労使双方納得したものになったと認定する。確かにこの日団交が持たれ9項目にわたる「確認書」を締結した。しかしこの団交は労使対等とは言い難い性格のものだった。なぜなら明乳労組は完全に会社に取り込まれていたからである。

「生産疎外者は解雇も」

 団交の2日前、明乳労組石川委員長は「春闘妥結に際して組合員各位へ」という声明を発した。「会社との交渉中生産阻害者が終始問題になり、なおあげ得たであろう結果が割り引かれた点であります」と春闘が不十分に終わった元凶は申立人ら生産阻害者にあると罪をかぶせてきた。

 声明はさらに次のように続く。「会社のいう生産阻害者とは、共産党員、民青加入者で、欠勤が年30日を越えたり(某支部全体の7%強)、故意に不良製品を作ったり、職制に文句をいって自分はブラブラして作業もしなかったり、平常において円満な労使関係を樹立することを妨げたりする者をいいます。このような我々の労働運動と方向を異にし、我々の足を引っ張る者は組織から外れ自らの目的にあう組織の中で活動すべきだと信じます」。ここまで会社と一体になり、労使協調に徹した労働組合はそうざらにはない。

 このような姿勢の明乳労組中央と、申立人らの排除をけしかける会社側が団交を持ったらどんな結論になるか、最初から分かるではないか。

 この団交で合意された「確認書」は3本の柱からなっている。第1は人減らし「合理化」のさらなる推進、第2は新職分制度導入について、第3は「生産阻害者への対処」である。、

 第3の「生産阻害者への対処」は概略次のような内容である。
 「勤務劣悪な者、製品の故意の不良化、設備の損壊等を行う生産阻害者、職場秩序の破壊を唱導しあるいはみずから実行する者が出ないように組合は努力する。会社はかかる行為をなしたものについて社業への貢献が期待できないので、これを解雇することができる」。

 これが「確認書」の柱なのだ。命令はこのうち新職分制度の導入合意のみを取り上げているが、新職分制度と人減らし「合理化」、「生産阻害者」の排除はセットになっているのである。それなのに命令は新職分制度の合意部分だけ取り出すことによって背景事情を全て抹殺してしまったのである。

 新職分制度導入を目指す明乳労組本部と会社の協議は事もなく進行し1968年(昭和43年)8月15日に妥結する。都労委命令はこれを「相当の手続きを経たうえで新職分制度の導入を決定した」と好意的に評価。新職分制度の正当性の根拠としている。会社側江間証人の言い分がそっくり認容されたのだ。

 では新職分制度と移行格付試験に反対し、会社と明乳労組本部双方から「生産阻害者」と烙印を捺されていた申立人らの活動は命令の中でどう捉えられているのか。

 「こうした会社の受験呼びかけに対して、市川工場においては申立人らを含む者らによって移行格付試験受験拒否の活動が行われた。すなわち、申立人古小高、斉藤、および久保ら3名の名義による試験反対を内容とするビラを配布したり、また申立人小関および伊藤らは、組合の市川支部事務所に赴き、市川支部役員らに対し『受験を強いている。本人は大きな精神的負担である。組合で処理してもらいたい』等と抗議したことが認められる」。――なんとも、申立人らの活動を矮小化した事実認定ではないか。

 3人でビラを配ったとか、明乳労組市川支部に申し入れに行った程度の活動で、市川工場従業員の約半数が受験拒否(不受験)を決断するわけがない。申立人らの「新職分制度は差別を助長し、全体として低賃金に抑え込む資本の攻撃だ」と本質をついた主張に賛同・共鳴した労働者が職場の半数もいたということなのだ。そこの所に触れずに新職分制度を賛美するための意図的な事実認定としか言いようがない。

 不当労働行為制度はいうまでもなく使用者による団結権侵害行為から労働者を救済するところに本質がある。労働運動路線の評価をするところではない。明乳事件の場合は団結権を侵害されたといって申し立てているのは明乳労組本部でなく申立人らなのだ。新職分制度に賛成し推進するのも労働運動の路線だと言えなくもないが、制度に反対し、制度導入の前提措置である移行格付試験に反対するのも立派な労働運動ではないか。労働委員会は労働運動の路線の違いに対してえこ贔屓をしてはいけない。路線の対立については中立を保たなければならない。

一方の組合活動を敵視

 明乳命令は徹頭徹尾申立人らの労働運動に批判的である。故意にゆがめたり矮小化する見方が目に余る。申立人らの活動に敵意を持っているといっても過言ではない。会社施策にことごとく反抗し、共産党や民青の影響下にある申立人らの組合活動は労働委員会としても認められないという立場。労使協調と反共を旗印にした連合路線が正当な組合活動なのだと言わんばかり。それが命令の中に貫かれている。

 申立人らは1960年(昭和35年)から67年(昭和42年)まで、明乳労組市川支部の執行部として活動していた。それが職制らによってつくられたインフォーマル組織明朋会によって執行部から排除されていく。明朋会を牛耳っていたのは会社だ、との申立人らの主張に対して命令は次のように言う。

 「申立人らの中の一部の者は、39年度から42年度までの間、市川支部役員として活動したことがある。そして、40年ごろから、市川工場の中で明朋会と称する班長職を中心とした集まりがもたれ、同会のビラの『・・支部役員は本部役員を敵とののしってはばからず・・』との表現からするれば、当時の申立人の一部が役員となっていた市川支部執行部が組合本部の方針と必ずしも一致しない活動を行っていたことが推認される」

 「そして、41年8月に行われた支部定期大会において、申立人らの一部がかなり影響力を有していたとみられる執行部が提出した運動方針案の主要部分が否決され、組合本部に同調する組合員らの提出した修正案が可決されたこと、さらに、翌42年7月に行われた市川支部役員選挙において、申立人らはすべて落選し、以後、申立人らの中で同選挙に当選した者はいない」

 「新職分制度導入に際して会社と組合本部が労使協議に入ろうとしている41年頃、市川支部においては、組合の主導権が申立人らの一部の者から組合本部と同一歩調をとる者らに移行しつつあったことが認められる」 

 まるで、組合本部と一致しない活動をしていた申立人らは執行部から排除されて当然だという論調ではないか。しかもその根拠となっているのは明朋会のビラなのだ。一体高田公益委員と担当事務局は証拠に出された明朋会ビラを全部ちゃんと読んでいるのか。都合のいいとこだけ引用するのは許せない。

 明朋会ビラは申立人らを「(忍者)赤ガエル」「赤ムシ」「赤い細菌」「赤いだし汁」「赤いタニシ」などと罵倒し、「生産阻害を唯一の生き甲斐としているインチキ革命家共」「生産阻害者」「企業破壊者」と決めつけて、「労働者意欲欠如者(申立人ら)の排除」を主張しているのである。

 一つひとつは根拠も何もない悪罵に過ぎないが、これを会社の庇護の下に連日門前で配布されると一般従業員の心境に変化が起こるのはやむを得ない。申立人らを「怖い存在」として避けようとする。それが執行部選出の選挙に反映されたと見る見方が妥当だろう。

 「ウソも百遍言うとホントになる」という言葉がある。ヒットラーが大衆扇動したあの手口だ。明乳の一般従業員ばかりでなく都労委までもが会社の機関銃のようなデマ宣伝になびいてしまったのではないか、と私は思う。ここで思い当たるのは95年4月6日の調査期日の高田公益委員発言である。

 以前にも書いたがこの日、会社側をどうしたら和解の話し合いに乗せることができるかということで三者委員と事務局の下相談が持たれた。その席上、高田さんの口から「高田、末廣(当然事務局も一緒)で明乳中山社長に会った」という話が出た。和解に応じるよう説得に行ったという趣旨だ。

 中山社長について高田さんは「おとなしそうな人だった」と印象を述べた。その上で労働者委員の私に「運動の面で目に見える変化ができないか」と問いかけている。つまり高田さんの頭の中には「おとなしい社長」と「過激な運動の争議団」という構図が描かれていた。それが和解の障壁だというわけ。

 私に内緒で公使委員と事務局で社長に会い、申立人らの組合活動が当時も今もいかに過激なものであるかということをさんざん吹き込まれてきた結果に違いない。私はその場で反論したが残念ながら、その刷りこまれた申立人らの組合活動への偏見がそのまま命令の「事実認定」になってしまった。いや「なってしまった」というのは正しくない。都労委の悪意によって「してしまった」のである。

 新職分制度導入についての会社と明乳労組本部の協議のスタートになった1966年(昭和41年)4月20日の「労使確認」。これが@合理化推進、A新職分制度導入、B生産阻害者の排除、の3本柱から成り立っていることは既に指摘した。命令は3本のうち1本だけ取り上げてあとの2本には目を瞑った。

邪魔な証拠は消せ

 つまり却下・棄却命令の邪魔になる証拠は最初からオフリミットなのである。明乳市川工場命令で「邪魔者は消せ」とばかりにあっさり葬られた重要証拠の一つに「笠原メモ」がある。

 不当労働行為事件の救済のためには、使用者の不当労働行為意思が存在することが認定されなければならない。「意思」というのは人間の心の動きのこと。認定するのはそれほど簡単ではない。使用者が自ら「おれは組合活動を嫌っていた」などと白状するわけがないから、状況証拠を積み重ねて判断するしかない。その際、会社やその周辺で作成したマル秘文書の存在が決め手となることが多い。

 笠原ファイルはマル秘文書として一級品の証拠価値がある。そんなことは労働委員会関係者なら誰でも分かることである。笠原ファイルが、70〜72年の作成当時製造課主任だった笠原利治のノートであることは会社も認めている。つまり真実性の担保された証拠なのだ。

 笠原ファイルは70〜72年の職制連絡会の会議記録である。職制連絡会は明朋会会員から班長以下を除いた係長・主任ら上級職制のみで構成されている。つまり会社の意思が直接伝わる会社直結組織なのだ。会議には会社応接室などが使われ、会社が管理する資料を使った業務上の議題も討議された。

 笠原ファイルには@支部役員選挙で申立人らの進出をどう防ぐか、A職場組合員を赤組(×)白組(○)雑草組(△)に分類して対処する、B赤組の票崩し、白組の拡大、などが討議されたことが記録されている。このあからさまな証拠文書に対し会社側大島証人は@「赤組排除」などは笠原個人の考え、A明朋会とは無縁、B組合選挙に介入したのでなく互いに感想を述べ合っただけ、などと言い訳している。

 命令において「使用者の不当労働行為意思の存否」を判断することは労働委員会としての何よりも大切な責務である。申立人が会社の不当労働行為意思を示すものとして提示し、会社が反論した笠原ファイル。これをどう判断するかは明乳命令のカギを握る。なのに都労委はその判断を姑息にも回避したのだ。

 都労委は明治乳業市川工場事件命令において悪意による少なくとも三つの「事実の無視」を行った。一つは1年半を費やした個別立証を無視したことである。あまりにも空疎な立証であるためまともに判断したら申立人らを救済しなければならなくなる。そこで救済請求を入口で拒絶する却下命令とする。さらに後続の事件を分離して命令対象から外してしまう。これなら個別立証の判断はしなくて済むと踏んだのだ。

 もう一つは1966年(昭和41年)4月20日の「労使確認」である。この労使確認は既に述べたように@合理化の推進、A新職分制度の導入、B生産阻害者・企業破壊者の排除、の3本柱によって成り立っている。この3本柱のうち新職分制度に関わる労使確認のみ事実認定し他は意図的に無視した。

 労使確認は申立人らを生産阻害者・企業破壊者と決めつけ「会社はかかる行為をなしたものについて社業への貢献が期待できないので、これを解雇することができる」と宣言した。解雇さえできるのだから賃金・昇格差別など軽いものだ、ということになる。これが不当労働行為意思でなくてなんだろう。

 第3は笠原ファイルだ。これほど明白な不当労働行為意思の証拠を判断もしないで無視したことは労働委員会のあり方として失格に値する。「邪魔な証拠は消せ」というのではあまりにも不公正ではないか。

ちらつく明乳労組の影

 これほど酷い、不公正かつたたかう労働者への悪意に満ちた命令書。そのルーツはどこにあるのか。私の脳裏には明治乳業労組の影がちらつく。これから先は私の推論・推測の域に属するのかも知れない。しかし状況証拠を積み重ねていくとかなりの正確度で「明乳労組の介入」の実態が浮かび上がってくる。

 ここで思い出していただきたいのは92年10月6日に行われた調査期日である。新堂公益委員が会社側に熱心な口調で和解に乗るよう説得した。これに対して調査の場に出ていた労務課職員は「いま職場の人はこの審問に注目している。自分たちの処遇以上に何故申立人らが優遇されねばならないのか。逆に不公平ではないか。この事件は申立人と会社の争いでなく、一般の従業員との争いなのだ」と発言した。

 「職場の人」とか「一般の従業員」とか言ってるが抽象的で分かりにくい。これを「明乳労組」と置き換えてみたらどうだろう。労務課職員の話がよく理解できるではないか。明乳労組は「審問に注目」し「何故申立人らが優遇されなければならないか」と不満を持つ。和解をぶち壊した張本人なのだ。和解をぶち壊すだけではない。申立人らの主張を認めた救済命令は何がなんでも阻止しなくてはならない。

 89年の連合発足まで、食品産業の労働組合は食品労連と食品同盟に分かれていた。ナショナルセンターは、前者が中立労連で後者が同盟である。雪印、森永、明治などの乳業関係は食品労連で、60年から70年代までは総評とともに春闘共闘を組んでいた。しかしその中で明乳労組は、60年代の早くから労使協調路線を歩み食品労連の最右翼と言われた。

 「生産阻害者・企業破壊者の排除」を謳った明乳の労使合意は1966年だが、その後も申立人らを敵視した労使癒着は進行した。連合発足後、食品労連と食品同盟は組織統一して食品同盟となる。連合民間の大産別の一つである。ちょうどその頃、都職労都労委分会も連合・自治労の傘下に入る。

 91年11月に都労委第30期が発足し、労働者委員幹事に全逓出身の成嶋久雄委員が送り込まれた。成嶋幹事は「担当事件の平準化」を強行し、私から「潮流間事件」を取り上げようとした。反連合、非連合の労働者委員を認めず連合独占を謀った。ある時私は連合派職員から「社民を見くびってはいけませんよ」と言われたことがある。成嶋氏が都労委分会と密接な関係を持っていることがうかがわれた。

 反共と労使協調の連合型労働運動路線を労働委員会に持ち込もうとした成嶋都労委労働者委員幹事と「和解も嫌だ」「救済命令も阻止したい」と画策する明乳労組がどこかでドッキングしたことが容易に想像される。明乳労組の願望が成嶋幹事を通じて事務局の幹部や分会に反映したことは否定できない。

 だからといって彼らの意図がそのまま明乳命令になったとは私も短絡的に決めつけるつもりはない。公害事件の複合汚染のようにいろんな要素がからんでいたのだと思う。却下・棄却命令を見越した会社側証人の採用、強引な審査指揮、偏った事実認定、それらは特定多数の共同作業だった。

 労働組合の右翼的再編、総評解体、労働者委員の連合独占といった背景事情のもとに、高田公益委員、末廣使用者委員、成川事務局員、経営法曹の重鎮を揃えた会社側弁護団、中山社長、黒川・沢井・大島・石田・江間・東野らの会社側証人、そして明乳労組が「却下・棄却命令」に的を絞って集中した。日本の労使関係を「対決」から「強調」へ変質させようとする権力の意図が透かし見えるではないか。

 命令以後、命令に関わるいくつかの後日談を記して本稿を終える。

 不当な明乳命令の変更を求めて申立人らは中労委に再審査申立をした。結審後、中労委から和解の打診があった。全金出身の嶋田労働者委員の情報によると会社は「雪乳の例」を持ち出して頑なに和解を拒否したという。特に和解後「雪印一般」なる労働組合を結成したことが和解拒否の理由とされた。「和解の精神を裏切った」というわけである。会社の意思決定に明乳労組の意向が強く働いている証拠である。

 明治乳業株式会社(現明治ホールディング)のメインバンクは第一勧銀(現みずほ銀行)である。当然設備投資資金などは第一勧銀を中心にした他銀行との協調融資に頼っていた。それが明乳命令以後急変する。農林水産省が管轄する農林漁業金融公庫の融資額が跳ね上がったのである。

 1997年に20億円だった明乳への長期貸付金が98年80億円、99年114億7000万円と増え、2001年には194億円に達している。4年間で約10倍である。農林漁業金融公庫は政府系金融機関だから市中銀行に比べて金利が安い。企業にとって有利なだけにそれだけ融資先に神経を使う。不祥事や内部紛争など問題がないことが条件だ。もし明乳を「不当労働行為企業」と断罪する都労委命令が出されていたらどうだったろう。

 命令の会社側名宛て人は中山悠社長である。彼は命令を免罪符・無罪証明書として活用した。2003年まで社長を続け、この間2000年創設の「日本乳製品協会」(乳業協会)会長にもなった。その功績で08年には旭日重光章をもらえた。申立人らを踏みつけにしたまま名誉ある階段を上りつめたのである。

 成川美惠子事務局員は命令2年後の1998年に、同僚の直井春夫氏と共著で「労委制度ノート」(新しい紛争解決システムの模索・総合労働研究所刊)と題する定価4000円の本を出した。事務局職員が在職中に自著を出版することは非常に稀で、私の記憶ではこの本以外に例はない。
 
 高田公益委員は99年11年まで会長代理として都労委に在籍した。あれは2003年10月に開かれた三睦会(都労委三者委員・事務局幹部の現役とOBの懇親会)だったと思う。高田さんが現役時代を回顧してスピーチした。戸塚や兵頭さんの名前を出して雪印乳業の和解の思い出を語った。

 話し終わって壇から降りた後、私を見つけて近寄ってきた。親しそうに話しかけてきたが、私は普通の挨拶をしただけで話に乗らなかった。明乳命令のしこりが残っていたのだと思うが、今考えると大人げなかった。高田さんは寂しそうに私に背を向けて離れて行った。

 もしかすると明乳命令について何か話そうとしたのかも知れない。その後ろ姿が高田さんを見た最後で、三睦会名簿によれば2年後の05年11月に逝去とある。享年79歳だった。末廣毅使用者委員は01年まで在籍し、退任1年後の02年2月に71歳で亡くなった。

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 昨年8月に始めた本稿だが、この(72)で終わる。最初気負ったほどには新発見はなかったけれども、なにやら見えないものが見えてきた気もする。近々整理、補足、訂正をはどこしてパンフにまとめたいと思っている。興味ある方は通してよんでほしい。


「明乳市川工場事件」余聞

 「検証・都労委『明治乳業事件』」が1年3ヵ月ぶりに終わりほっとしたとたん、思わぬところに愛読者がいることが判明した。私の批判の対象である当の明乳労務と弁護団である。

 昨27日、中労委で明乳全国事件の審問が行われた。時間前に控室に顔を出すと争議団長の小関さんが声をかけてきた。今日のこちら側証人に対する反対尋問用におれのブログが証拠として出されているというのだ。今年7月17日付のもので、全国事件の申立に至った経緯を綴っている。

 中に「この申立は和解対象者を明確にすることが目的で・・・」という記述がある。要するに全国事件は和解のために申立てたのであって、命令を求めて本格的に争うつもりはなかったのではないか、というわけだ。昨日の審問でも大阪の井村証人に対してそのような趣旨の質問があった。

 井村さんは「私たちは全国の仲間でかねてから差別是正のたたかいを起こす方針を決めていた」と言い切り、会社側弁護士もそれで尋問を打ち切った。それにしてもささやかな私のブログを鬼の首でも取ったように仰々しく中労委に証拠として提出する会社も会社だ。審問が申立人側の優位に進んでいることへの焦りなのだろう。

 おれは昨日の審問を聞いて中労委での明乳全国事件は勝負あったと確信した。格差の存在、会社の不当労行為意思、申立人らの正当な組合活動が余すところなく証明された。無理な屁理屈を並べた都労委の棄却命令が覆ることは確実だ。だが本件は命令を出せば済むという段階を越えている、とおれは考える。

 申立人らはすべて定年退職して職場にはいないのだ。不当労働行為制度は過去の紛争に白黒をつけるばかりでなく、将来の紛争当事者の関係正常化をはかることも重要な目的としている。明乳という会社はこれからも企業としての社会的責任を果たさなければならないはずだ。自分の会社で40年も働き、生産に貢献してきた申立人らを「企業破壊者」と烙印を押したまま、話し合いさえ拒絶するということでいいのか。そこのところを説き起こして会社を説得するのも労働委員会の務めではないか。

 いずれにせよこのところ影が薄い戸塚の名前を公の場に出してくれた明乳労務と弁護団に感謝する。まだ舞台裏に引っ込んではいけないと激励されたものと受け止めてもうひと踏ん張りするつもりだ。

posted by さとやん at 08:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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